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上廣・カーネギー・オックスフォード倫理会議 2011


大阪府立大学 森岡正博教授 報告

 今回の会議に参加していろいろと思うことがあった。会議の概要について、私自身の問題関心に引きつけながら報告したい。会議のメインテーマは「道徳心理学を構想する・形作る」というもので、各報告で具体的に取り上げられたのは、倫理学と心理学の境界領域である道徳心理学の現代的意義と、道徳的エンハンスメント(増強)の可能性と課題であった。ともに日本の学界ではまだほとんど議論されることがない領域であり、先進性という意味では非常にユニークな会合であったと言える。
 1日目の午前には、Guy Kahaneによる道徳的エンハンスメントの歴史的考察の発表、Jonathan Haidtによる実証的な道徳心理学の調査についての発表、Fiery Cushmanによる人を傷つけることへの拒否感についての発表が行なわれた。まず道徳的エンハンスメントについてであるが、これはテクノロジーの力を借りて、人間の道徳能力の増大を図っていくというプロジェクトのことである。そのように考えてみると、現代のバイオテクノロジーを使う以前から、いろいろな方法によって人間の道徳能力の増大は目指されてきたと言える。発表者の報告を聞いて私が思ったのは、そもそも倫理学という学問は、古代から人々の道徳能力をいかにして高めればいいのかを最大のテーマとしてきたということもできるということである。その手法としては、徳に優れた聖人のような人間を模範としてまねるとか、そのような聖人の言葉を学習することで身につけるというところから始まり、それをいかに合理的理性の力を借りて行なうかという方向へと進んでいったように思われる。このとき、アリストテレスの言うように、教育と習慣づけが大きな力を発揮するのである。だが、古代世界から2千年以上もの歳月が経っているが、そのあいだに我々の道徳能力は増大したのであろうか? 二〇世紀の二つの大戦を見るに、そのようなことは起きなかったと思えてならない。2千年のあいだに不可能であったことが、今後のバイオテクノロジーの力を借りることによって、一気に可能になると考えるのはあまりにも楽観的ではないかと私は思った。会場からの質問でも、人間の肉体や脳を操作するよりも、人間の生活条件や社会格差などを改善したほうがずっと効果があるのではないかという正当な問いが投げかけられた。 また道徳心理学と倫理学の相違についても考えさせられることがあった。道徳心理学の発表を聞いて思ったのは、道徳心理学は、人間の道徳性や道徳的判断などがいかにして心理的なプロセスによって規制され影響を与えられているかを解明するというスタンスで進められているということである。人々にインタビュー調査をして、道徳面に関する彼らの指向や判断を把握し、それに普遍的な傾向がないことを示したり、あるいはまた「リベラル/コンサバティブ」の軸に沿った道徳の対応関係が出るという結果を導き出す発表もあった。つまりそれは徹頭徹尾サイエンスなのである。これに対して、規範そのものを導出することを目的とする規範倫理学は、「現に人々がどのような道徳的判断をしているか」を解明するのではなくて、「これから我々はどのような価値観で社会を作っていけばいいのか」についての方向性を提案するということを主要課題としている。この意味で規範倫理学の根本はサイエンスではないのである。このあいだにある大きな溝というものに、今回の会議では大きな焦点が当てられなかったように私には思えた。道徳心理学と規範倫理学のあいだの同床異夢について、もっと考える機会を設けたほうがよかったのかもしれないと思った。 人を傷つけることへの拒否感についての発表で、近頃はやりの「トロッコ問題(Trolley Problem)」が何度か言及された。これはマイケル・サンデルが『ハーバード白熱教室』で用いたこともあって、日本では一種のブームのようになっている。トロッコが線路の上を暴走している。その先には5人の人間がレールに縛り付けられている。ところで5人の直前に待避線があって、そちらのレールには1人の人間が縛り付けられている。あなたはこの待避線にトロッコを進入させるスイッチを握っている。あなたはスイッチを押さずに5人を見殺しにするか、それともスイッチを押して1人を殺すか、という思考実験である。このバリエーションとして、スイッチを押すかわりに、一人の人間をあなたが手で線路に突き落としてトロッコを止めるというものもある。このとき我々は、自分の手で突き落とすという選択肢をもっとも避けようとするのである。私はかねてよりこの思考実験に大きな違和感を持っていた。というのも、このままいくと5人が死んでしまうから、それを避けるためにスイッチを押して1人を殺すほうを選ぶという選択肢が、米国が広島・長崎に原爆を落としたことを正当化するときに使う論理とそっくりの構造をしているからである。私は会場からこの点を質問した。そして、広島・長崎のサバイバーがこの思考実験のことを知ったらどのように思うだろうかと尋ねてみた。この思考実験の不快なところは、この設問に、レールに縛り付けられた人たちの視点がない点にある。設問として投げかけられているのは、スイッチを握っている安全地帯の人間の倫理的判断についてであり、そこには自分がひょっとしたら犠牲者になっていたかもしれないという想像力が入り込む余地はない。要するにこれは戦争の勝者の論理なのである。 1日目の午後には、Jesse Prinzによる道徳に関する心理メカニズム仮説の発表、私の幸福感の操作と人間の尊厳についての発表、David DeGraziaによる道徳的エンハンスメントについての発表、Peter Railtonによる道徳的判断の直観性についての発表があった。Prinzの発表は上に述べたようなサイエンスとしての道徳心理学を前面に出したものであった。カントとヒュームを例にとって、カントの主張するような普遍的道徳判断を下す抽象的実践理性は存在せず、精神は感情の集合体であるとしたヒュームのほうに軍配が上がるという方向性の話がなされた。実際に、人間の心理のはたらきは複数のエージェントによってなされており、道徳性はそれらによって構成されるパッケージとして捉えることができるということであった。このような正統派の心理学に対して、私はやはり規範倫理学の視点からの疑問を感じた。すなわちそれは道徳判断の現象についての記述分析であるにとどまっており、これからの社会を牽引する道徳原理を導出する分析にはなっていないという点である。この点は今回の会議の全体について私が感じた疑問点である。この方向性をいくら積み重ねていったとしても、人間や社会をどの方向へと導いていけばいいのかという大問題について的確な回答を与えることは不可能ではないかと思われるからである。カントが行なおうとしたのは、まさにそのような次元の試みだったはずである。我々にいま求められているのは後者の次元の学問ではないだろうか。 私の発表は、今後のテクノロジーの発展によって可能になるであろう脳操作による幸福感の創出が、人間の尊厳と衝突するのではないかという内容のものであった。一般的には心が幸福感によって満たされるのは最高の状態だと思われているが、実は、人工的に生み出された幸福感によって心が支配されることは、その人から人間の尊厳を奪うことになるのだという主張をした。質疑応答では、絶望に沈む人を考えれば分かるように、幸福感を生み出す薬によって人間の尊厳を回復する場合も往々にしてあるわけだから、その点をどう考えるのかという疑問が立て続けに出された。この点については、私自身考えを詰め切れてなかったこともあって、的確に応答することができなかった。発表内容を論文化するときにきちんと考えて応答しようと思っている。私の発表内容も、道徳心理学と倫理学の境界領域で生じる問題であると言える。 道徳的エンハンスメントについての発表への質疑では、やはり「何をエンハンスメントすることが道徳的なのか」について焦点になった。たとえばナチの時代では、ユダヤ人を絶滅させて優秀なゲルマン民族を増やすことが道徳的エンハンスメントとしてとらえられていたと言えるかもしれない、などの論点が出された。言うまでもなく、ここで上記の道徳心理学と規範倫理学の溝の問題が露わになっている。 2日目の午前には、David Wassermanによる道徳的エンハンスメントの発表、赤林朗による日本の東日本大震災についての発表、David Rodinによる道徳的エンハンスメント批判への再批判の発表があった。赤林の発表は津波被害と原発事故に関するものであり、会議テーマから言えば異彩を放っていたが、そこで問いかけられた問題は奥の深いものであった。震災のような非常時で、かつ原発事故のおかげで援助者に被害が予想されるときに、医療者はどこまで援助に乗り出すべきかという難しい問題が提起された。さらには、津波が襲ってきたときには各自が自分のサバイバルだけを考えて勝手に高いところに逃げろという言い伝え(「津波てんでんこ」)が紹介され、その妥当性について問題提起がなされた。震災後の日本のメディアでは、津波てんでんこは古来からの知恵であり、それに従っていればもっと多くのいのちが助かったという言い方が多くなされた。しかしそれは動けない人たちや、高齢者や、障害者たちを見捨てて自分だけサバイバルすることを肯定する倫理であり、お互い助け合って生き延びようという共同体倫理と衝突するものである。また津波てんでんこは、結果的な人命の数を最大化しようとする功利主義が実践されたものであるとも考えられるが、それは果たして推奨されるべきものかどうか。報道によれば、津波が来ているにもかかわらず、知り合いの高齢者を助けようと探しに行っていのちを落としたケースも少なからずあるようである。それは津波てんでんこに反しているが、我々はそのような行為のほうをより倫理的と見る面があるのではないだろうか。しかし逆に言えば、お互いに助け合おうとすることによって、サバイバルできる人数を減らしてしまい、将来の共同体の存立を危うくさせる結果になるという面もあるだろう。ここに現われているのは、やはり旧来よりの功利主義と義務論の対立のバリエーションであるのかもしれない。残念なことに、このようなことは質疑応答では議論されなかった。 2日目の午後は、Jonathan Gloverによる道徳心理学へのコメント的な発表、Julian SavalescuとIngmar Perssonによるバイオテクノロジーによる道徳的エンハンスメントの可能性についての発表がなされた。Gloverは本題に入る前に、前日の質疑応答で話題になった広島・長崎への原爆投下について長いコメントを行なったが、それが非常に興味深いものであった。米国では、原爆投下は米軍兵士と日本の一般市民のこれ以上の犠牲を出さないようにするために決断されたと言われているが、それは俗説であって、実際に文献を調べていくと、投下の決定がどこで誰の責任でなされたかが至る所であやふやにされているというのである。大統領をはじめ、関係者は投下の決断責任から身をそらし、結局のところ誰が最終決断をしたのかが分からないまま、大きなシステムが作動して原爆投下が現実化してしまったという。私はこのことが正しいのかどうか判断することはできないが、ひとつの可能性としてはあり得るかもしれないという感覚を持った。会議をしめくくる印象的なエピソードであった。 夜には、二重螺旋構造の発見者のひとりであるJames D. Watsonによる講演会が開催され、その後、全体が閉会となった。 以上、私自身の問題関心にもとづいた報告を行なった。私の思い違いや、語学力に起因する聞き間違いが含まれているかもしれないので、その点はご容赦いただきたい。サイエンスと倫理のはざまで何が問われているのかを、いくつかの角度から掘り下げることができた良い会合であった。発表者・参加者が、英国、米国、日本からの研究者に偏っていたので、ヨーロッパ大陸系の哲学者が参加していればもっと別の視点が導入されて刺激的になったかもしれないと思う。(終わり)

 

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