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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー2011年6月おすすめの図書



  竹内整一著
 『「かなしみ」の哲学──日本精神史の源をさぐる』
  日本放送出版協会 2009年刊



 悲しみを「喪失」という観点から捉えると、孤独な魂の苦悩が思い起こされる。小此木啓吾『対象喪失』を紹介しながら、「喪の仕事」について述べたが、これは失われたものへの執着を、孤独に引きこもって克服しようとするものだ。悲しみとは心の内側で喪失の痛みと「作業」を重ね生きる力に変えていく内面的なプロセスとして表象される。
 確かに悲しみは孤独な心の中で起こっている。だが同時に、悲しみは愛とともにあり、ともに生きようとする力とも関わりが深い。東日本大震災が起こり2万人を超える方々のいのちが失われ、原発の影響もあって広大な土地や家屋が失われた。こうした状況の中で、私たちは悲しみを分かち合い、悲しみについて語ることで何とか力をとり戻そうとしている。
 竹内整一の『「かなしみ」の哲学』は東日本大震災の1年少し前に刊行されている。だが、震災後の今なお読み返して心に響く箇所が少なくない。たとえば、「はじめに」には脚本家の山田太一の編著『生きるかなしみ』(1991年)の一節が引かれている。
 そして私は、いま多くの日本人が何より目を向けるべきは人間の「生きるかなしさ」であると思っている。人間のはかなさ、無力を知ることだという気がしている。……
 私たちは少し、この世界にも他人にも自分にも期待しすぎていないだろうか?
 本当は人間の出来ることなどたかが知れているのであり、衆知を集めてもたいしたことはなく、ましてや一個人の出来ることなど、なにほどのことがあるだろう。相当のことをなし遂げたつもりでも、そのはかなさに気づくのに、それほどの歳月は要さない。
 そのように人間は、かなしい存在なのであり、せめてそのことを忘れずにいたいと思う。
 2011年3月11日後の言葉を聞くような錯覚を覚えるのは私だけだろうか。また、長男を自死で失った経験をもつ作家の柳田邦男の著書『悲しみの復権』の言葉も引かれている。柳田は「死の医学」の取材を長く続けてきた上で自らの息子を失ったのだ。
 悲しみの感情や涙は、実は心を耕し、他者への理解を深め、すがすがしく明日を生きるエネルギー源ともなるものだと、私は様々な出会いのなかで感じる。……それは、封印されてきた「悲しみ」の感情を解放し、「悲しみ」をネガティブにでなくむしろ生きる糧にしようとする新しい市民意識の登場と言うことができる。……二十一世紀を人間と社会の真の成熟を目指す世紀にするには、「悲しみ」の感情を教育の場でも社会的にも正当な位置に復権させることが必要だと、私は考えている。
 十分に悲しみ、そのことを表現しながら力にしていくこと、それは深い愛や思いやりの表れでもあろう。倫理学及び日本思想史の専門家である著者は、日本の文学や思想の豊かな資料をふんだんに用いて、そのことを示していく。
実際、日本語の「かなし」には「悲し」とともに「愛し」の漢字があてられてきたことを著者は強調している。『万葉集』の大伴旅人の歌はよく知られている。
世の中は空しきものと知る時しいよよますますかなしかりけり
 妻をなくしたときのこの歌では、「かなし」は「悲しい」と「愛しい」「いとおしい」のどちらの意味にもとれる。著者はそれを「人間存在としての「かなしみ」」と述べている。
 息子の大伴家持の次の歌では、「愛し」の意味が一段と濃くなる。 
父母を見れば尊く妻子(めこ)見ればかなしくめぐし
 このように「悲」と「愛」が重なり合うのは、悲しむ人は向かう相手を失った愛をもて余しているからだろう。また、悲しむ人に同情しその人を労わる愛が自然であることによってもよく分かる。広く苦しみにそのような働きがあるだろうが、苦しみが強い場合は愛を超えて人を閉じ込めてしまう作用が強い。悲しみは愛へと開かれる可能性が高い。悲しみが倫理に深く関わる所以である。
 『日本霊異記』には人の痛みを察することを「悲し」という語で示す例があるようだ。
  
国の司、聞き見て、悲しび賑(めぐ)みて糧(かりて)を給ふ。
 確かに身近につらい人悲しい人がいなくても、そういう人のことを聞いて自分も悲しいと感じ、何とかしてあげなくてはと思うことが少なくない。「哀れみ」としての悲しさということだが、哀れみによる思いやりの中に「悲しさ」が潜んでいるといわれればそうかとも思えてくる。
  
我が身からうき世の中と名づけつつ人のためさえかなしかるらむ(『古今和歌集』)
この叫ぶ声を聞きて、悲しみにたへずして、川を泳ぎ寄りて、この男を助けてけり
                                     (『宇治拾遺物語』)
 だが、「哀れみ」の倫理に限界があることは意識せざるをえないことだ。悲しみに愛が立ち向かおうとしてもかなわないことが多い。『野ざらし紀行』の冒頭に出てくる富士川のほとりの捨て子の話は印象的だ。   
いかにぞや、汝、父に悪(にく)まれたるか、母に疎まれたるか、父は汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。ただこれ天にして、汝が性(さが)のつたなきを泣け。
 自分も白骨を野辺にさらすことになるかもしれないという覚悟を述べた「野ざらしを心に風邪のしむ身かな」という構えでの旅の途中のことであるが、わずかに食べ物を与えて通り過ぎてゆくことは哀れみの倫理の限界であるとともに、人間の有限性を自覚し超越的な次元に思いをいたす機会でもある。
著者は自らの母が亡くなったときのことにつき、「何かをしてあげたい、何かを言ってあげたいと思いながら……何もできない、届かない、力が及ばないといった思いを強く感じた」と述べている(100ページ)。「悲しみ」が「おのづから」なるものに己をゆだねる日本的な宗教性の重要な契機であることを強調している。
 「悲しみと宗教」ということなら、仏教の「慈悲」のことがすぐに思い浮かぶ。慈悲の「悲」は自己の悲しみというよりは他者への思いやりだろう。なぜそれが「悲」となるのか。「慈」は「いつくしみ」であるが、「悲」について、サンスクリット語(カルナー)の原意は「呻き」だという辞典の語義説明を引いて、著者はこう述べている。
 つまり、「悲」とは、人生の苦しみ・悲しみに対する人間の呻き声であり、みずからが呻くような「悲」の存在であることを知ることによって、他者の苦しみ・悲しみがわかる、わかるがゆえに、その他者の苦しみを何とか癒してあげたいという救済の思いとなって働いてくる、それが「悲」であるという説明である。まさに「悲の器」としての人間ということであろう。(105-6ページ)
 著者はさらに五木寛之の『他力』を引く。「他人の痛みが自分の痛みのように感じられるにもかかわらず、その人の痛みを自分の力でどうしても癒すことができない。」「そのことがつらくて、思わず体の底から「ああ……」という呻き声を発する」。それが「悲」だ。「がんばれと言っても効かないぎりぎりの立場の人間は、それでしか救われない、それを〈悲〉と言います」。「悲しみを癒すのは、悲しみである」。五木の場合、これが蓮如に代表される浄土真宗流の「悲」ということになり、著者もそれに賛同している。
 これは悲しみの共感力がもつ倫理性に大きな期待を寄せるものだが、それは超越者の力への信仰があってのことだ。著者は「悲しみ」が人間の無力さ、すなわち有限性の自覚に発するものであるとともに、人間を超えた超越的な次元、すなわち無限性の感受に道を開くものであることを強調している。
 つまり、「かなしみ」とは、有限性の感情でありながら、もともと無限性のうちにある、あるいは無限性の側から働いてきている感情であるが、なお有限の側からは無限とは融合・一体化しえない、まさに有限性と無限性の「あわい」にある感情ということができるであろう。
 こうした捉え方は、日本独自の形而上学、あるいは超越論理があるとする著者の立場を反映している仏教元来の倫理性に目を向けるなら、「悲しみ」が布施や持戒に連なり、感情よりも倫理実践に重きを置く解釈もできるだろう。
 とはいえ、悲しみが他者への愛と切り離しがたいものであること、そのようなものとして倫理と結びつき日本文化に深く根づいてきたことを著者は力強く示している。
 今もなお東日本大震災の悲しみは重苦しく覆いかぶさっている。そのことを自覚しつつ、復興と新たな歩みを進めていこうとするとき、本書は大きな力となるに違いない。



 

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