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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2011年9月 島薗教授おすすめの図書



 カール・ヤスパース著(橋本文夫訳)
 『戦争の罪を問う』平凡社ライブラリー1998年刊(原著1946年)



 福島第一原子力発電所の事故による災害は、アジア太平洋戦争の終戦時及び敗戦直後のことをしばしば思い起こさせた。事故が深刻でたいへんな災厄が人々を襲っているのが明らかなのに、なおも情報を隠して心配するなといい「勝利」できるかのようにいい続けたのは大本営発表のようだと言われた。担当者のはずの人たちが、どこが問題なのかを問われても誰も答えられないこと、誰の意志で決断がなされたのか分からないことも戦時中の「無責任体制」そのままだと言われた。責任を問おうとしても責任のある人たちが、なお重要な職責についたままであるのも戦後の戦争責任問題と似ていると論じられた。
 総力戦に敗れるということと原発事故とでは違いが大きいのは言うまでもない。アジア太平洋戦争の日本人死者は300万人を超えるが、原発事故による死者の数は予測できないとしてもそれよりはるかに少ないだろう。だが、どちらもきわめて多くの指導者層の人たちが、巨大な規模の損害を起こした企てに積極的に関与していたという点では似ている。1950年代以降の日本の政財官学報の各界のリーダーの多くが、「原発は絶対に安全」として原発推進に与してきた。住地を追われたり、生業を奪われたり、被曝によるがんなどの病気・障害に危険に脅えている多くの人々にまともに顔向けできるとは思えない。
 したがって、「責任を問う」ことは避けられない。どうしてこのような被害が生まれたのか、嘘やごまかしや失敗があったことをうやむやにはできない。だが、責任を問うとき、いったいどのような姿勢でそうするのか。これは日本の敗戦後も問われたことであり、原発災害継続中の今もしばしば問われることだ。では、この問いに正面から、かつ明晰に答えた日本人はいただろうか。その答は難しい。だが、ドイツでは哲学者のカール・ヤスパースがまさにその問いに正面から、明晰に答えていた。1946年の1月から2月にかけての講義で語られた『戦争の罪を問う』(罪責問題)である。
 ヤスパースはこの講義で、罪を問うことの根幹には、個人が自ら自身の良心に問いかける姿勢がなくてはならないということを述べている。他者がどこでどのように道を誤ったのか、どこで間違った判断がなされ、多数者に危害を加えたり、それに手を貸したか、またどのように虚偽が語られ、他者を欺いたのか――これらの問いが追究されるだろう。国際的な文脈からはドイツ人はこれらの問いにより追究される側だが、ナチスに協力せずナチス時代冷遇されていたヤスパースの場合はナチス協力者を追究するのが自然な側でもあった。ナチスの罪は明らかのようだが、ナチスに協力したり、黙認したりした人たちに罪はあるのか。罪の追究はどのような場合に、どのような意味で正当なのか。
 この問いに答えるために、ヤスパースは4つの罪の概念を分けて考えるよう促す(p48-50)。第1は「刑法上の罪」で多くの社会で犯罪とされているような明白な罪である。第2は「政治上の罪」で為政者の行為に対するものだが、国家の公民である限りで国民も背負うことになる。第3は「道徳上の罪」で個人が行うすべての行為に関わる。もちろん政治的、軍事的行為にも及ぶ。第4は「形而上的な罪」であらゆる人間は連帯関係にあるので、人はあらゆる不法不正に対して責任があり、他者が不当に苦しみ死ぬということを他人事とはいえない側面がある。そのような意味での罪である。
 この4つのレベルの罪にはそれぞれ「審判者」が想定されている。刑法上の罪の審判者は「正式の手続きを踏んで事実を信頼するに足る確実さをもって確定し、これに法律を適用するところの裁判所」。政治上の罪の審判者は「戦勝国の権力と意志である。勝利が決定権をもっている。恣意と権力との緩和は、あとあとの結果を顧慮する政治的狡智によって、かつはまた自然法および国際法の名のもとに通用する規範を承認することによって、行われる」。以上の2レベルでは審判者が誰にも観察・認知される存在であるが、以下の2レベルでは審判者は誰にでも観察・認知できるというわけではないかもしれない。道徳上の罪の審判者は「自己の良心であり、また友人や身近な人との、すなわち愛情をもち私の魂に関心を抱く同じ人間との精神的な交流である」。形而上的な罪の「審判者は神だけである」。
 この最後の形而上的罪と審判者の概念はもう少し説明を聞きたいところだ。「私が他人の殺害を阻止するために命を投げださないで手をこまねていたとすれば、私は自分に罪があるように感ずるが、この罪は法律的、政治的、道徳的には、適切に理解することができない。このようなことの行われた後でもまだ私が生きているということが、拭うことのできない罪となって私の上にかぶさるものである」。『戦艦大和ノ最期』の著者、吉田満のような日本の特攻隊の生き残りの兵士が、ひどく苦しまざるをえなかったのはこの罪の次元に関わるだろう。
 この形而上的な罪がすべての罪の根底にあるとヤスパースは捉えている。生き残りとしての悲しみに深くとらわれた経験がある人は納得しやすい考え方かもしれない。「道徳的な過誤は、政治上の罪と刑事犯罪との生じてくるような状態の土台をなすもの」だ(p52)。そして、道徳的な罪が深刻なジレンマの中で問われ続ければ形而上的な罪と境を接するようになる。そこで、ヤスパースは「われわれは区別を通じて、結局は、言葉に表すことの全く不可能なただ一つの根源たるわれわれの罪に立ち返ろうとする」のだという。宗教こそが人類の存在の基盤だとする考えに基づくものだから、この考えには承服しがたいと感じる人も多いだろう。だが、「形而上的な罪」という概念は宗教を前提としなくても成り立つと思われる。
 ヤスパースが具体的な実例を念頭に置きながら検討していくのは道徳上の罪である。ナチスの支配が強まっていく過程で、ドイツ人はどのような態度を取りえたはずだったか。たとえば、軍人の本領を発揮するとか祖国への義務を果たすということが非とされるわけではない。だが、「軍隊と国家とによってあらゆる邪悪が行われていたにもかかわらず、われわれが敢えてみずからを軍隊と同一視し、国家と同一視したことは、ただただ驚くばかりである」。「この罪は、「汝に対して権力をもつ上司に忠誠なるべし」という聖書の言葉を誤解したところから生じたのであるが、しかしその罪が完全に悪質化してしまったのは、軍国的な伝統に基づいて命令が神聖視されたことによるものであった」。
 また、ナチズムにも長所があるとして「精神的な順応・妥協を事とする生き方」や「内部から好転させるために、協力せねばならない」などとする自己欺瞞も道徳上の罪である。こうした考え方は「ナチズムにおける非人間的、独裁的で、しかも人間の真のあり方を没却した虚無主義的な性格をなすゆえんのものと本質的に相通ずるものがあるのかも知れない」(p103-4)。「ことに敢えて大勢に順応しないで不利を忍んでいたドイツ人の多かったことを思えば、なおさらである」(p108)。ナチズムと戦争への道のそれぞれの段階で、どのような態度をとるかの選択肢がありえた。それらを吟味していくことで、道徳的な罪のありかが明らかになっていく。
 このように見てくると法律的な罪だけでなく、道徳的な罪もその基準がどこにあるかある程度、示すことができる。だが、政治的な罪はどうか。日本で問われる「戦争責任」や「原発災害責任」で問題になるのはこの政治上の罪である。ヤスパースはその審判者は「戦勝国の権力と意志」であるという。東京裁判はまさに戦勝国の権力と意志に沿って行われたので、戦敗国である日本の国民はその結果にやりきれない思いを抱かざるをえない。原爆投下は日本国民から見れば死や苦難を受けるいわれのない多くの犠牲者を生んだ過誤であると感じているが、それが政治的な罪として問われることはない。原発災害の場合は責任者の多くが、なお権力をもった勝者の側にあるので、問われずにすんでいる。
 この書物は、戦勝国の裁きであるニュルンベルグ裁判の進行中に書かれている。この裁判が刑事上の罪の概念を基礎とし、新たな世界秩序における国際法に則ったものになるような希望が示されているが、それは部分的にしか実現しないだろうとも述べられている。勝者の側の罪が問われなければならないとしている。政治的な罪の追究は納得しがたいものを残すだろう。だが、やはり政治的な罪を負うことも避けがたいことであり、国民は国家の責任をそれぞれの関わり方に応じて引き受けざるをえない。ナチス国家の犯罪はそれだけの重みをもっていたのだ。
 しかし、それはそのまま国民がそれぞれの道徳的な罪を自覚するということではない。では、政治上の罪が道徳的な罪と関わりがないかというとそうとも言えない。この問題を考えるには、集団の道徳的な罪というものを考える必要があるとヤスパースはいう。生活態度と政治上の出来事には密接な関係があり、きっぱりと両者を分けることはできないからであり、政治的自由には道徳的なものが含まれているからだ。「精神が政治的自由をもたない場合……一方では服従しながら、他方、自己の罪を感じない。自己の罪を感じ、したがって自らの責めを負うべきことを意識することこそ、政治的自由を実現しようとする内面的変革の始まりである」(p120)。この観点からは、指導者への無条件の服従を受け入れたこと、屈従した指導者がどのような性格であったかということについて、ドイツ人には集団的な道徳的罪があることになる。
 「われわれはわれわれの政府に対し、政府の行為に対し、この世界史的状況下に戦端を開いたことに対し、われわれが先頭に立たせた指導者の性格に対して、政治的な責任を帯びている。ゆえにわれわれは戦勝国に対してわれわれの労働と給付能力とをもって責めを負い、敗戦国に課せられた通りの償いをしなければならない。/加うるにわれわれには道徳上の罪がある。道徳上の罪はいかなる場合にも個人個人にあるのだから、各自がそれぞれに自己清算をつけなければならないのだけれども、しかし集団的な面には、いかなる個人ものがれることのできない生活態度と感情のあり方とに根ざす道徳的ともいうべき契機が含まれている」(p122-3)。
 最後にヤスパースは罪を清めるとはどういうことかについて述べる。「償いによる清めの道は避けがたい。だが清めはこれだけにとどまらない。……罪を明らかにすることは、同時にわれわれの新たな生き方を生きる上での種々の可能性を明らかにすることである。」それは幸福を期待することをも含んでいる。だが、幸福に安住することはできない。「憂愁という背景の上に立って、幸福をまた好もしい奇蹟として受けとるのである。」
 「その結果はおのれの分を知るということである。超越者たる神を前にした内面的な行動を通して、われわれ人間の有限性と不完全性とが意識される。謙虚さ(フミリタス)ということがわれわれの本質となる。/かくてこそわれわれは権力意欲をもたず、愛の闘争を通して、真なるものの論議を進め、真なるものにおいて互いに結びつくことができるのである」(p183-4)。
 ユダヤ人の妻をもちキリスト教を基盤とした「哲学的信仰」をよりどころとしたヤスパースの、「神」という言葉に受け入れがたいものを感じる日本の読者は少なくないだろう。しかし、アジア太平洋戦争や広島・長崎の原爆や福島原発災害を経て、その責任を問うことを避けがたいと感じている者にとっては、哲学的な深みをもった思考がふんだんに盛り込まれたこの省察の書は、大きな助けとなることだろう。


 

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