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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2011年12月 島薗教授おすすめの図書



 竹内 洋 著
 『教養主義の没落――変わりゆくエリート学生文化』
   中央公論社 2003年刊


 「専門家」に対する信頼が揺らいでいる。科学を通してしか理解できない領域があり、科学者の力を借りてこそ作り出すことができるものがある。だが、科学者が単に「専門家」であるとしたらどうか。
 専門家としての科学者が、それまで狭い専門の中で通用してきた領域を超えて新たな問いに出会うとさっぱり頼りにならないとすれば、それは科学(学問)のあり方に、また学び方に問題があるからではないだろうか。
 大学は科学・学問の専門家を育てる機関と考えられている。だが、それだけではないはずだ。大学は専門科学を超えて、人間の何を育てようとしているのか。個別の専門を超えて何を身につけさせようとしているのか。科学を身につけること、学問を学ぶこと、知的な素養を育てることの価値は何だろうか。
 ここで「教養」という言葉に出会う。大学だけではない。そもそも学校教育は社会生活を行っていくための基礎的能力を養うとともに、社会の指導的立場で働くにふさわしい人間としての教養を身につけることを目指していると言えるだろう。
 では、学校教育で、とりわけ大学で身につけることが期待されている教養とは何か。ある時期まではそれが何か、社会的な合意が成り立っていた。だが、この30年ほどの間にだいぶ分かりにくくなってきた。それはどうしてだろうか。
 大学で一般教養教育というものが軽んじられるようになった。社会人として直ちに役立つ専門的能力を身につけることが重視される度合いが格段に強まり、一般教養に時を費やすのはむだだと考えられる傾向が強まった。学ぶ側も教養を身につけたいという欲求が後退した。早く専門的能力を身につけて社会の中で重要な役割を果たせるようになりたい。どこでどう役に立つか分かりにくい教養などというものが果たして必要なのだろうか。
 狭い世界の専門家では困る、だが教養などというものに時間を費やしたくはない。現代の教育体制を悩ますこのような問題を考える際、「教養主義」について考えるのが役に立つ。教養が輝かしいものと見えた時代があった。それはいつ頃で、その時代に教養とはどのようなものとして人々に受け止められていたのだろうか。
 2011年現在、60歳代ぐらいの世代で大学教育を受けたものは、教養主義時代の「教養」のイメージを持っている。この世代の人々が大学に学ぶ頃までは、「知識人」や「インテリ」に存在価値があると信じられ、そうなるために哲学や思想や文学、あるいはマルクス主義を初めとする「社会科学」について学ぼうとする学生が多かった。
 彼らが好んで読むのはもちろんコミック誌やファッション誌ではない。明治末から戦後の時期では、『中央公論』、『世界』、『改造』、『展望』などの総合雑誌や、『思想』、『文学』、『文学界』などの思想・文学専門誌が好まれた。文庫本は宗教・哲学・思想・文学の古典が多く、ドイツのレクラム文庫をまねた岩波文庫は権威ある教養文庫となった。岩波書店を始めた岩波茂雄は東京帝大では本科ではなく選科生という立場で聴講し、若くして古本屋を始めた。そして、夏目漱石の『こゝろ』を出版させてもらうよう漱石に頼んだ、これが大成功して、またたく間に岩波書店は教養主義を代表する出版社に成長した。本書にはこのような教養がいつ頃からいつ頃まで、どの程度好まれたのか、データを参照しながら示している。
 日本の教養主義は明治末に旧制高校とともに形成された。西洋先進国の言葉を学び、そこで尊ばれてきた書物による知識をわがものとし、それらについて難しい言葉を使って語りうるようになることが教養主義にとっての「教養」だった。文学部は就職して社会でよい地位に着くには都合が悪いが、「教養」の上からはその頂点に立つはずの学部だ。それは上流階級の文化ではないが、上流階級に対抗するための何かを身につけることができると考えたからだ。
 著者はそれを「象徴的暴力」というやや難しい言葉で捉えようとする。教養主義の代表者の一人とされる和辻哲郎は1916年の「教養」というエッセイで次のように述べている。
 「君は自己を培って行く道を知らないのだ。大きい創作を残すために自己を大きく育てなくてはならない。(中略)君が能動的(アクテイヴ)と名づけた小さい誇りを捨てたまえ。(中略)常に大きいものを見ていたまえ。(中略)世界には百度読み返しても読み足りないほどの傑作がある。そういう物の前にひざまづくことを覚えたまえ。ばかばかしい公衆を相手にして少しぐらい手ごたえがあったからといってそれが何だ。君もいっしょにばかになるばかりじゃないか」p.54
 こうした教養観について、著者は「万巻の書物を前にして教養を詰め込む預金的な志向・態度である」という。「より学識を積んだ者から行使される教養は、劣位感や未達成感、つまり跪拝をもたらす象徴的暴力として作用する」。大学の講義やゼミや実験室で先生には頭が上がらないのは当然だが、専門領域のことにとどまらず、人間としての全体的能力として教養が足りないことが引け目を感じさせる。逆に教養を持てば尊敬され社会的立場も強くなる。
 こうした教養主義の権力性は、日本の場合、地方と都市の関係とも関わっていた。地方から出てきて刻苦勉励して上昇しようとするエートスと教養主義が結びついていた。都市の上流や中流上層の子弟は教養主義を冷ややかに見ていた気配がある。とりわけ昭和初期や戦後はマルクス主義と教養主義が結びつく傾向が強かったので、それに距離をとるエリート候補の若者も少なくなかった。
 1937年に完結した『三田文学』(慶應義塾の文芸誌)連載作品、石坂洋次郎『若い人』は函館のミッションスクールを舞台とした小説だが、教養主義の女子大出身「橋本先生」がリベラル常識派の「間崎先生」をこう批判する。
 「草深い片田舎から都会に出た女子学生がいつか都のハイカラな風に染まつて、淳朴で皺くちやな田舎の両親を、これが自分の生みの親ですと云つて人の前に紹介することを羞づかしがる、そんな軽はずみな気分のものを貴女の古い物嫌ひの中に感じて仕方がないんです」p.178
  このような事情だから、教養主義青年は庶民の生活意識からもブルジョア的な文化意識からも離れている。戦後世代として後者に近い立場から、教養主義との決別を告げた青年作家の一人に一橋大学生だった石原慎太郎がいる。弟の石原裕次郎の自由な青春生活にも触発されながら、石原は1956年の『処刑の部屋』で教養主義を罵倒する大学生の主人公にこう語らせている。
 「嫌な奴、嫌な奴。小賢しい奴。こ奴には張って行く肉体(からだ)がない。頭でっかちの、裸にすれば痩せっぽちのインテリ野郎。こ奴らは何も持ってやしない。何も出来やしない。喋るだけ、喋くって喋くって何も出て来ない言葉の紙屑だけだ。俺を見て、大学まで行ってと奴等は言うが、俺も大学まで行ってこ奴等みたいにはなりたかない」。p.79
 石原慎太郎が大学生だった時代に、大学進学率は急速な上昇を始めていた。大学進学率は1963年に12.1%だったが、75年には37.8%になる。マス高等教育の時代である。大学卒業者がエリートになるという時代は終わった。著者は69年に絶頂を迎える学生叛乱は、古い大学の「教養」の理想への反発という動機を宿していたと捉えている。
 「かれらのただのサラリーマンという人生航路からみると、教養など無用な文化である。教養はもはや身分文化ではない。かれらはこういいたかったのではないか。「おれたちは学歴エリートなど無縁のただのサラリーマンになるのに、大学教授たちよ、おまえらは講壇でのうのうと特権的な言説(教養主義的マルクス主義・マルクス主義的教養主義)をたれている」、と。かれらは、理念としての知識人や学問を徹底して問うたが、あの執拗ともいえる徹底さは、かれらのこうした不安と怨恨(ルサンチマン)抜きには理解しがたい」。p.210
 こうして教養主義は没落した。だが、それでは教養は不要になったのか。もちろんそんなことはない。学生自身も人間形成が必要であることを知っている。だが、筒井清忠や吉田純らのアンケート調査の分析によると、「現代の大学生は人間形成の手段として従来の人文的教養ではなく、友人との交際を選ぶ傾向が強く、同時にかつての文学書と思想書をつうじての人文的教養概念が解体している」という。p.239
 なお教養が生きているとしても、ライトな「キョウヨウ」とでも言うべきものになっていると著者はいう。それは円滑な人間関係を志向しており、クラスの最大公約数的文化に同調するような正確のものではないか。「教養主義が大衆文化との差異化主義であるとすれば、キョウヨウ主義は大衆文化への同化主義である。とすれば、キョウヨウは……サラリーマン文化(平均人、大衆人)への適応戦略でしかないということになる」。P.240
 これは寂しいこと、また危ういことだ。そこで著者は社会学者井上俊の文化論を援用する。井上によると、文化には「適応」「超越」「自省」の三つの作用があるという。適応は実用主義と、超越は理想主義と、自省は懐疑主義と結びつく。「1970年代以降の状況は、文化の適応機能が肥大し、超越、自省の作用の衰えによる一元化が急速に進行し、三つの作用の拮抗と補完の動的な関係が喪失している」というのが井上の診断だ。
 最後に著者は、旧制高校的教養主義から掬いあげるべきものは何かという問いを投げかけ、教養を尊びつつ、戦後の政界や実業界で活躍した二人の人物を取り上げている。前尾繁三郎と木川田一隆だ。木川田一隆は昭和教養主義の大御所、河合栄治郎に学び東京帝大経済学部を卒業し、労働問題に取り組もうと三菱鉱業の入社試験を受けた。ところが、面接委員と激論を戦わせてしまい不合格となり、結局、第2志望の東京電燈(東京電力)に入社した。著者はこういう。
 「木川田はそんな若い日の自分を振り返りながら、「このごろ入社試験の面接に立ちあっていて反骨精神に富んだ人物に出くわすとそのころのことを思い出して、微苦笑することがある」(「私の履歴書」)、と書いている。」
 木川田が採用し、育て、後を託した人々が主導した東京電力のその後の展開が何をもたらしたか、私たちは見てしまった。木川田が今存命であれば何を語っただろうか。たぶん、著者の以下の締めくくりに賛同するに違いない。
 「教養主義が敗北・終焉し、同時に教養の輪郭が失われているが、そうであればこそ、いまこそ、教養とはなにかをことのはじめから考えるチャンスがやってきたのだともいえる。(中略)教養教育を含めて新しい時代の教養を考えることは、人間における矜恃と高貴さ、文化における自省と超越機能の回復の道の模索であることを強調して、結びとしたい」。P.246

 

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