東京大学大学院
  上廣死生学講座


京都大学こころの
  未来研究センター

東京大学大学院医学系
  研究科 赤林朗教授


東京大学大学院人文社
  会系研究科島薗進教授


倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2012年2月 島薗教授おすすめの図書



 ウルリッヒ・ベック
 『世界リスク社会論――テロ、戦争、自然破壊』
  ちくま学芸文庫 2010年刊 (初刊は2003年、原著は1997年、2002年の2冊)


 著者は、チェルノブイリ事故が起きた1986年に『リスク社会――新しい近代への道』(邦訳『危険社会』、1998年)という書物を刊行し、一躍世界にその名を知られるようになったドイツの社会学者だ。その後もテロ、気候変動、金融危機などのグローバルな危機について鋭い分析を行い、世界の識者に注目されてきた。福島原発事故を受けてドイツのメルケル首相が設置した「安全なエネルギーのための倫理委員会」では15人の委員のうちの1人に選ばれたが、2011年5月末に提出された報告書の内容にはベックの考え方が色濃く反映しているようだ。
 1986年のベックは校正中だった『リスク社会』に「この機会に」という小文を書き加えた。2011年のベックは日本の社会学者とともに『リスク化する日本社会』(2011年7月刊)という書物を刊行する準備を進めていたが、この度も福島原発災害に苦しむ日本の読者のために「この機会に」という文章を書いている。
「……世界リスク社会における日常については、チェルノブイリ後の世界では、この社会が徹底的にカフカ的性格をもつことを学ぶことができる。放射能汚染によって、意味が接収され、自分の生活条件の危険性に関する市民の判断力が失われる。……チェルノブイリの原子炉事故による死者の数は。およそ46人から100万人以上まで、報告によって様々である。……/その結果、日常的に人々は、「非知のパラドックス」が自分を恐怖に陥れていることに気づく。すなわち危険が増すほどに非知も増し、それだけ決断は不可能となるのである。」 p.10
 どうしてこんな理不尽に苦しまなくてはならないのか。ベックが用いる「リスク社会」という言葉はそのわけをある程度、理解できるようにしてくれる。ある段階までの近代社会は、人間の環境に対する統御力を増大させ、それによって安全の度合いが増した。ところがある段階から、今度はつねに予測されるリスクに直面しながら生きなくてはならないようになり、よく分からぬリスク評価を前に決断困難な場に立たされ続けるようになる。医療を受ける際のインフォームドコンセントを思い浮かべるとよいかもしれない。
 それは、私たちが環境や身体や関係についての知識を増やし、また人知が切り拓き、つくり出していく人為的な環境や関係の中で暮らす度合いが増えれば増えるほど、リスクを知りつつ決断しなくてはならないことに囲まれていくからだ。かつて人々は「お医者さん」にお任せするしかなく、信頼と不信の間で医師の技量や知識や説明力について評価し続けなくてはならないようなことはなかった。医師もよく分からないなりに勘を駆使し総合的な経験をして判断していくしかなかったが、そのために責められる心配はなかった。
 しかし、合理的な人知が及ぶはずの領域が増えるに従って、リスクを前にしたシステムと個々人の判断に委ねられることが増えていく。だが、多くの事柄につき個々人の知識ストックで的確な判断を行うことは困難だ。それならば専門家に相談すればよいのではないか。ところが、今度は専門家の判断が分かれる。一方、専門家の側もリスク評価の誤りについて問いただされるというリスクに直面し続けることになる。
 重大なリスクは個々人を苦しめるだけではない。政治もリスクにどう対処するかという問題に悩まされ続けるようになる。ある段階までは、国家はリスクを担いつつも、ある程度、成功を続ける国家もあった。経済競争に勝ち戦争に勝つことで国家はリスクを克服し、多くの国民に安定をもたらすことができると考えられてきた。ところがグローバル化が進み、人類が一つの地球村(グローバル・ヴィレッジ)に生活し、相互に影響を及ぼし合っているさまをつねに感知できるようになるに連れて、人類社会全体が統御することが困難な大きなリスクに直面し続けていることを自覚させられるようになる。本書のタイトル『世界リスク社会論』はそうした世界のありさまを指している。
 前半の「言葉が失われるとき――テロと戦争について」は、2001年11月にモスクワのロシア国会で行われた講演をもとにしている。いうまでもなく9.11のアメリカ同時多発テロに触発された内容が多い。だが、それはテロだけでなく、原発事故や地球温暖化や世界金融危機や遺伝子操作による人類の未来への危機にもあてはまるものだ。
「チェルノブイリや異常気象や、人体遺伝学を巡る論争やアジアの金融危機といったさまざまな出来事や脅威と、いまわたしたちが直面しているテロの脅威に共通するものは何でしょうか。」 p.25
 ベックは、それは「言語と現実の乖離」だという。
「現代の世界では、わたしたちが思考し、行為する際によりどころとしている数量化可能なリスクを扱う言語と、同様にわたしたちがつくりあげたものである、数量化できない不確実性の世界との隔たりが、科学技術の発展とともにますます拡大しています。核エネルギーについての過去の決定、そして遺伝子工学や人体遺伝学やナノテクノロジーやコンピューター科学の利用に関する現在の決定によって、わたしたちは、予見できず、制御不可能な、それどころかコミュニケーションを取ることが不可能な結果をもたらし、そのことによって地球上の生命を危険にさらしているのです。」 p.26-27
 もっとも、人類は常に危険にさらされて生き延びてきた。地球のどこかで、地震や飢饉や戦争で地域社会が存続を脅かされることがなかった時代はなかっただろう。では、そうした過去の時代の危険と現代世界のリスクとはどこが違うのか。
 「それでは、リスク社会において新しいことは一体何でしょうか」とベックは読者に問いかけている。
「リスクの概念は、近代の概念です。それは、決定というものを前提とし、文明社会における決定の予見できない結果を、予見可能、制御可能なものにするよう試みることなのです。例えば、喫煙者のガンのリスクはこれぐらい高いとか、原発の大事故のリスクはこれぐらいであるとかいう場合には、リスクというものは、ある決定のネガティブな結果ではあっても、回避可能なものであり、病気や事故の確率に基づいて計算することが可能なものです。したがって、それは天災ではありません。世界リスク社会の新しさとは何でしょうか。それはつまり、わたしたちが文明社会の決定によって、結果として、地球規模の問題や危険をまき散らしていることなのです。」 p.27
 それはまた、国民国家の中で多くのことが解決されると考えられていた時代には、まだ存在していた社会システムへの信頼が、今や失われていくことでもある。1996年にウイーンでなされた講演をもとにした、後半の「世界リスク社会、世界公共性、グローバルなサブ政治」では、国家や家族など安定した社会組織がセフティーネットを提供しうると感じられていた第二次世界大戦後しばらくまでの「第1の近代」の時期と、それ以後の「第2の近代」を対比させている。第2の近代においては、かつては良き効果をおおよそ信頼できた事柄の、ネガティブな副作用が露わになり、既存の制度ではリスクを統御できない事態が噴出してくるという。
 この副作用はグローバルな危険として出ることが多く、そこでは国家や政党など、従来の政治の場とは異なるところに政治の場が移っていく。表舞台の「文化=カルチャー」に対してロックや秋葉原やマンガに見られるような「サブカルチャー」が蠢いているとすれば、国家や政党が担う正統的な「政治」に対して「サブ政治」が台頭してくる。これは2011年にエジプト革命で起こったことや、原発問題に対するツイッター等でのコミュニケーションの働きを思い起こすとよいかもしれない。

「サブ政治は、「直接的な」政治を意味しています。つまり、代議制的な意思決定の制度(政党、議会)を通り越し、政治的決定にその都度個人が参加することなのです。そこでは法的な保証がないことすら多々あります。サブ政治とは、別の言い方をするならば、下からの社会形成なのです。そのことによって、経済や科学や職業や日常や私的なことは、政治的伝統的な議論の嵐にさらされることになります。……決定的に重要なことは、サブ政治が政治的なものの規則と境界をずらし、解放し、網目状に結び付け、ならびに交渉できるものにし、形成可能なものにすることによって、政治を解き放つということなのです。」 p.116
 リスク社会は豊かな自然の産出力を当たり前に享受できなくし、テロを避けるための監視のシステムをはびこらせる。そして、放射能の健康被害のようにリスクの度合いをめぐって意見が割れ、人々の信頼関係が脅かされる。だが、このようなリスクはチャンスにもできるのだとベックは言う。なぜなら、リスクは立場を選ばず、ほとんどすべての人々に及ぶ場合が多いので、国境を超え立場を超えて連帯する可能性が開けるからだという。これはテロ後のモスクワでの講演に顕著に表れている。それはまた、原発の是非で分裂してしまったドイツを新たな共通の目標に向けて和解させようとの意図を含んだ「安全なエネルギーのための倫理委員会」の報告書にも見える考え方である。これは、新たなコスモポリタニズムを提唱するベックの立場とも関わっている。
 前向きの希望は確かに必要だ。倫理の基盤には確かに共感や希望がなくてはならない。だが、リスクが社会のさまざまな対立関係と密接に関わっていることも否定できない。9.11のテロの背後には、パレスチナをめぐる長期にわたる対立があり、石油資源を確保しようとする先進諸国の権益が関与していた。原発の放射能被害の背後には、核実験を繰り返しその被害を押し隠すように「原子力の平和理由」を打ち出し、結果的に安全を軽視してきた核保有国を中心とする先進国の利益追求があった。それらの背後には世界経済の活性を重視するもっともな発想があったと思うが、そのために安全を軽視し多くの人々を犠牲にしてきたやり方が妥当だっただろうか。広島・長崎の悲惨な被害を知る日本人は核保有国の人々とはやや異なる感想をもつのではないだろうか。
 ベックは本書でも自ら啓蒙主義の徒であることを認めている。すぐれた知力によって、何事についても「その基礎をふり返る(reflexivity)」という近代の特性を徹底して考察したのは啓蒙の徹底である。その知力によって、本書は世界の難問が生じるゆえんに光を当てている。だが、この後、ベックは『〈私〉自身の神――平和と暴力のはざまにある宗教』(岩波書店、2011年、原著、2008年)で宗教や倫理の問題を根本から考え直そうとしている。ベックは知的自己反省(reflexion)を超えて、知を方向づけるものを問い直す方向に進まざるをえなかったのではないか――私はそう想像している。

 

HOME | 財団概要 | 道徳教育 | 生涯学習 | 表現教育 | 国際交流 | 研究助成
© Copyright 2004 公益財団法人 上廣倫理財団 All Right Reserved.