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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2012年3月 島薗教授おすすめの図書



 山脇直司 著
 『公共哲学からの応答――3.11の衝撃の後で』
  筑摩書房 2011年刊


 2011年の3月11日に起こった東日本大震災は、これまでの日本社会のあり方を大きく揺さぶっている。2万人近い人々のいのちを奪った地震と津波の巨大な被害をどのように克服していけばよいのか。加えて、福島原発事故により広い範囲の国土が放射能によって汚染されてしまった災害にどう向き合っていけばよいのか。
 多様な立場の人々が自らの立ち位置からさまざまな応答を試みている。被災者支援の活動に取り組む人、どのような復興のあり方が望ましいのかを考察する人々、これまでのエネルギー供給や経済の仕組みを新たな方向に転換させるための研究や活動に取り組む人、安全な科学技術や危機に直面したときの社会の対応を考え直そうとする人など、多様である。
 だが、その際、忘れてはならない大きな問題がある。それは3.11の災害が私たちに問いかけているのは、生き方や考え方の根本的なあり方であり、倫理や哲学、あるいは世界観や死生観に関わるような事柄でもあるということだ。とりわけ原発災害については、人災であることが明らかで、いのちを軽んじ、責任をとろうとしない政府や東京電力、あるいは専門家の倫理が問われただけではない。そのような無責任社会を存続させてきた私たち、また、危うい原発に依存して経済的発展を選ぼうとした私たち自身の生き方や考え方も問われている。
 実際、すでに多くの論者がこの度の原発災害は私たちの生き方や倫理の問題であると述べている。たとえば作家の村上春樹は、2011年6月に行われたカタルーニャ国際賞の受賞講演で、安全基準のレベルを下げてコストの節約を図ってきた政府や電力会社の責任を指摘するとともに、次のように述べている。
 「しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。」
 多くの日本人はこの意見に賛成するだろう。そしてこれは「責任を問う」ための問いにとどまらない。私たちの生き方や倫理の何をどう省み、変えていかなくてはならないのかという問いでもある。
 本書『公共哲学からの応答』はまさにそのような問いへの応答を目指したものだ。著者の山脇直司氏は東京大学で公共哲学を教えてきた研究者であり、独自の公共哲学を論じて来た立場から3.11が投げかける問いに応答しようとしている。
 では、公共哲学とは何か。それは以下の2つの要素をもつ思想であり学問であると、著者はいう。――(1)「善き公正な社会を追究するヴィジョンや行動指針」、(2)「現下で起こっている公共的諸問題を市民と共に対等な立場で論じ合い、そこでの要求を政策にリンクさせる実践性」。p.14
 公共哲学とは、広く社会の人々が関与する実践的な問題に取り組みながら、皆が関与できるような形で論じ合い、社会全体の善や公正さを問うていく学問・思想だという。著者が重視するのは「公共」というのは単に多くの人の生活に関わる共通の事柄であるという意味で「公」であるのにとどまらず、市民皆に「開かれた」ものでなくてはならないということだ。皆が討議に参加できるように開かれており、排除しないあり方をよしとするものだ。
 公共哲学は市民に、また多様な立場の人々に「開かれた」ものだということが強調されている。それを示す用語として著者は「活私開公」という用語を用いる。戦時中の日本で理想化された「滅私奉公」をもじって、「公」に「私」が従属するような伝統のあり方を、多様な「私」がそれぞれ個としての特性を活かしていきながら、開かれた「公共」の参与していくという生き方、考え方を示すものだ。ただそれだけではなく、著者は同時に「滅私開公」も必要だという。市民もそうだが、とりわけ政治家や公務員は私的な利益を抑え、利他的な倫理性をもって「公共」に関わる必要があるということを示す語だ。
 「公共」の事柄に関わるのだから、公共哲学は法や政治に関心を寄せることは理解しやすいことだろう。実際、この書物の中では憲法や民主主義について度々触れられている。公共哲学は人権に関わるものであり、自由や公正・正義に関わるものである。個々人の自由を民主主義社会の基本的な倫理原則とすることでは多くの論者が一致するが、それに圧倒的な力点を置く自由主義(リベラリズム)に対し、著者は距離をとる。選択の自由が拡充されれば、人々の利益の総体が極大化されると考える市場原理主義や功利主義では、著者は現代社会の諸問題を解決できないと考えている。
 これに対して、形式的な自由によってむしろ拡大してしまう格差や不公正を是正することへの配慮を加え、一定の正義を満たすことを説く『正義論』のジョン・ロールズの立場が広い支持を得ている。正義を尊ぶ自由主義の立場だ。だが、そのような形式的な原則では、善い社会を構想することはできないとの批判がある。そこで、「自由」や「正義」といった理念を超えた、より実質的な倫理性に即した公共哲学が求められている。
 たとえば、自由主義を批判したマイケル・サンデルの立場がそれだ。著者によるとサンデルのロールズ批判は次の2点にまとめられる。p.168-9 まず、人々はあらゆる束縛から自由な抽象的な「個人」なのではなく、「自ら生きるコミュニティに対して責任や義務を負う」、その意味ですでに「負荷を負った」個人だということだ。これは第2の批判点、つまり「善き生の構想」と結びついた「善き社会の構想」を問わずに公共的な問題に関与できるのかという論点につながる。
「サンデルによれば、現代において人々の多様な「善き生の構想」を統合することは不可能だから、「正義という権利」を普遍的な価値前提として優先させ、人々の多様な善の共存を図らなければならないというロールズの公共哲学は、批判されなければなりません。逆に、「人々の共通善の意識」こそが、正義を創出するのであって、そのためには「善き社会の構想」や市民一人ひとりの「統治能力の涵養」が必要だと考えられるからです。もし、「善き社会」について人々の関心が薄れ、また、「統治能力」が徳として市民に根づかなければ、政治は単なる「法的手続き」のレヴェルで片付けられ、民主主義は形骸化してしまうと、サンデルは恐れます。」p.169
 著者はこのサンデルの立場に全面的に同意するわけではないが、自由主義の限界を超える倫理性を求めるという、その議論の方向性は概ね支持している。著者やサンデルの自由主義批判は、政治の領域と倫理の領域をより密接な関係において捉えるものだ。3.11以後の倫理や哲学を問う私たちにとって、この立場の説得力は高いのではないか。それは「私的な価値と区別される公共的価値、すなわち人々が共有できる価値」p.158についてこれまで以上に真剣に考える必要を感じているからだろう。
 著者の論ずる題材は多岐にわたっているが、ここでは科学技術の公共哲学を論じた「科学技術の将来とガヴァナンス」の項に焦点をあてよう。先見の明をもった論者として紹介されているのは、早くから原発の危うさについて論じ、「市民科学者」として半生を送った高木仁三郎である。大量の核廃棄物を生み出すのだから、ほんとうはほとんどリサイクルなどできていない核燃料の処理を「核燃料リサイクル」とよぶ政府や原発推進勢力の欺瞞を鋭く指摘するなどして、高木は数々の原発安全神話を指摘し批判してきた。
「彼は、公益は国家が決めるものとみなした歪んだ科学技術官僚たちに対抗して、原子力資料情報室というNPOを設立して「市民のための科学」を試みました。それは、市民一人ひとりの中にある「公共心」に基づいて、科学技術の発展が真に「公共益」に適っているかを議論し、それを科学研究にフィードバックする姿を理想としていたと言ってよいでしょう。」p.144
 著者はこのような高木の生き方と活動を科学技術の倫理のよき見本として、また現代の公共哲学のすぐれた実践として捉えている。これは科学技術と社会の関係を問う新たな学問領域として成長しつつある「科学技術社会論」で問われていることと照応している。科学技術論の研究は高木が説き実践したような公共性という観点を重視することで、原発災害から学んだことを活かしていくことができるだろうと、著者は論じる。
 まず、「すべての科学者や技術者が、科学や技術が社会から独立した営みであるという幻想を捨て、科学技術が「公共的な次元」を有することを自覚する必要があるでしょう」と述べる。そし科学技術論の若手研究者である平川秀幸の『科学は誰のものか』(NHK出版、2010年)を参照して、「「価値中立的な科学技術」から、「善い科学技術」へのコンセプトの転換」が求められており、それは「誰にとって、何が善い科学技術なのか」を「共に考える」ための転換なのだとする。p.146 これは科学技術の「ガヴァナンス」に関わるものだ。
 「ガヴァナンスはそもそも「舵取り」を意味する用語で、従来のガヴァメント(英語略)が政府による統治という垂直イメージを持つのに対し、政府だけではなく一般市民も参加して、政策の舵取りを行う水平のイメージをもっています。ですから、日本語では「共治」という訳語が最もふさわしいでしょう。平川によれば、このような科学技術のガヴァナンスは、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、高速増殖炉もんじゅのナトリウム漏洩事件とその後の情報隠蔽などが起こり、薬害エイズ事件がマスコミで報じられるようになった1955年を転機として起こったようで、それはまさにNPO法案ができ、政府が担う公共性から、市民が担い公共性へと公共性のイメージチェンジが起こり始めた時期と一致しています。」p.147
 この叙述は科学技術の公共哲学に関わるものだが、経済やメディアや宗教など広い論題を取りあげている本書の論述を貫く中核的な論点に触れている。かつて政治は「公」的なもので政府に委ねるものであり、倫理は「私」的なもので市民一人ひとりのものだった。だが、今や政治は倫理に入り込み、倫理は政治と関わらざるをえない。だからこそ、それぞれの個人が尊ぶ「善き生の構想」が公共哲学の問題として問われるのだ。
 それはまた、倫理を義務や規範に関わる事柄と捉えるカントを代表とする「義務倫理」「規範倫理」の考え方を尊びつつも、さらに幸福な生活のための「徳」の育成を説くアリストテレス以来の「徳倫理」の考え方や、他者との支え合いを尊ぶ責任とケアの倫理の考え方にも十分な注意を向けようとするものだ。責任とケアの倫理は「将来世代に対する責任」が問われた原発災害と通してあらためてその重要性が認識されたのでもあった。p.60-68
 こうして本書は、「3.11の衝撃の後で」私たちが問わなければならない諸問題を、現代の公共哲学や倫理学の問いに、あるいは「思想」の問いに引き寄せて分かりやすく示してくれている。「3.11の衝撃」からの立ち直り、立ち上がりの道筋を模索している読者に益するところ大きい書物である。
 

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