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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2012年5月 島薗教授おすすめの図書



 アマルティア・セン 著
 『グローバリゼーションと人間の安全保障』(加藤幹夫訳)
  日本経団連出版 2009年刊


 本書は、ノーベル経済学賞の受賞者であると同時に、現代世界に大きな影響力をもつ知的リーダーとして、社会思想家として知られる著者が日本で行った講演(1998年、2002年)を基軸に編まれた文集だ。講演原稿がもとになっているだけに、著者の考え方が分かりやすくすっきりと提示されていて、読みやすい。意見が分かれがちな論点を取り上げて、自分の立場を鮮明に打ち出しているのも理解しやすい理由となっている。
 表題にあるとおり、本書の取り上げる諸問題の中心にはグローバル化の深まりという事態がある。国境を越えた人々の関係がますます深まっていくことで、私たちは次々と新たな経験に出会っている。喜ばしいこともあれば苦しみの原因と感じ取られることもある。市場経済が地球大に広がっていくと、地球上の経済格差がどの地域にも見られるようになってくる。かつて遠い第三世界のことと思われていた極度の貧困や恐怖に直面し続ける生活が、豊かだった先進国の内部、つまりは私たちのすぐそばに迫ってきている。豊かな国の富を享受してきた私たち自身のすぐ回りに、無残な死や治療したくてもできない病苦が、また陰惨で統御困難な暴力や犯罪がうごめく事態になっている。
 そこでグローバル化そのものを拒否すべきだという考え方も力を増す。だが、その道は選べない。グローバル化から得られるはずの利益は大きいので、グローバル化で生ずるマイナス面をどう克服していくかを考える方が賢明だとセンは論じる。グローバル化に伴う困難は不平等問題が大きい。「問題の核心は、グローバリゼーションがもたらすであろう潜在利益を、富裕国と貧困国との間で、あるいは国内のさまざまなグループの間で、どう配分するかということにあります。」p.34
 グローバル化による困難を考える上で、手がかりになる論題の1つが「人間の安全保障」だとセンはいう。 安全保障というと、かつては国家間の戦争や平和に関わる概念だった。だが、貧しい国々では内戦や住民の大量の危難が頻繁に起こっている。住民の安全で平和な生活を追求するのであれば、国家間の軍事的な関係に視野を限定しているわけにはいかない。そこで「人間の安全保障」という概念が必要になってきた。国連では1994年頃からこの概念が用いられるようになってきた。
 とりあえず日本の外務省のウェブサイトを見ると、「人間の安全保障」は「人間の生存・生活・尊厳に対する広範かつ深刻な脅威から人々を守り、人々の豊かな可能性を実現できるよう、人間中心の視点に立った取組を実践する考え方である」と説明されている。2000年の国連ミレニアム総会でアナン国連事務総長は、「恐怖からの自由」、「欠乏からの自由」とのキーワードを使って報告を行い、人々を襲う地球規模の様々な課題にいかに対処すべきかを論じた。この事務総長報告を受け、同総会で演説した森総理は、日本が『人間の安全補償』を外交の柱に据えることを宣言し、世界的な有識者の参加を得て人間の安全保障のための国際委員会を発足させ、この考え方を更に深めていくことを呼びかけた。
 この呼びかけは翌年、「人間の安全保障委員会」の創設という形で実現し、緒方貞子国連難民高等弁務官(当時)とアマルティア・セン、ケンブリッジ大学学長(当時)が共同議長に就任した。12人の有識者からなるこの委員会は2003年5月にアナン国連事務総長に報告書を提出している。本書に収められた「不平等の地球規模拡大と人間の安全保障」は1998年の日本での講演に基づくものだが、そこでは「人間の安全保障」という概念を説明するのに、センはまず同じ1998年の小渕恵三元首相の講演原稿「アジアの明日を創る知的対話」の言葉を引いている。
 私は、「人間は生存を脅かされたり尊厳を冒されることなく創造的な生活を営むべき存在であると信じています。」小渕首相はこう述べ、その信条との脈絡で、「人間の安全保障」(ヒューマン・セキュリティ)という概念を提示しました。ヒューマン・セキュリティは、「人間の生存、生活、尊厳を脅かすあらゆる種類の脅威を包括的に捉え、これに対する取組みを強化するという考え方」を示すキーワードでもあるとも云っています。留意すべきは、この発言の焦点が一般的な不平等に対してではなく、弱者の立場に置かれている世界中の人々をさらに窮地に追い込むようなあらゆる危険に対して当てられていることです。人間の生存、日常生活、そして尊厳性が脅威に晒されている人々が存在する反面、そのような脅威を全く感じていない人々も存在するというのは、もちろん一種の不平等であり、そのような状況がグローバルな配分の不平等にどのような意味を持つかは明白です。pp.41-42
 こう述べた後で、センは「人間の安全保障」は経済的な富の配分の公平とは区別されるものだと付け加えている。例として、1997年のアジア経済危機があげられている。この経済危機によって「職を失い、利益が期待できる経済活動から締め出された人々にとっては、公平を伴った成長であってもヒューマン・セキュリティを保障するものではなかったことが、急に明白になりました」。「経済ブーム時にすべての人々が一緒に上昇気流に乗った場合でも、落下するときにはばらばらにうなり、弱い立場に置かれている人々が最も大きな打撃を蒙ることになるのです」。p43
 これは日本人の現状によく当てはまる事柄ではないだろうか。当初は、発展途上国の苦難に手を差し伸べ、世界平和の基礎を育てるという主旨が強かったこの概念だが、センは先進国の人々にとっても切実な意義をもった概念であることを積極的に示している。小渕元首相が述べたように、「人間の生存、日常生活、および尊厳」が脅かされていることが、人間の尊厳や公正さに相反するものであり、そもそも社会の基本的価値そのものを疑わせるものである。
 かつてこのようなことは「発展途上国」や「第三世界」の事柄と考えられていた。小渕元首相や森元首相はそのように考えていたかもしれない。だが、それは国際社会が取り組むべき事柄であるだけでなく、先進国自身の事柄でもあることが明白になってきている。アメリカ合衆国では、2005年にハリケーン・カトリーナが南部を襲い、2500人余りの犠牲者を出したが、ニューオーリンズでは「人間の生存、日常生活、および尊厳」が脅かされているような状況が現出した。
 省みて2011年の福島原発災害後の福島県等の諸地域では、異なる意味でヒューマン・セキュリティが脅かされ続けている。現在のセン自身もそれをよくわかっていると思うが、日本政府は住民の安全を守るための方策を十分に取ることなく、子どもたちの放射線被ばくの危機を軽視し続けている。これは政府や県が東京電力やその同盟者として原発を推進してきた人々の立場から事態を捉え、地域住民の視点から事態を捉え返すことができなかったからだった。しかも、それを正当化する人々が「安全学」とか「安全安心(セキュリティ)」とか「リスク・コミュニケーション」の名において、住民の安全を軽視する考え方を広めてきたのだった。これは経済利益にすべてを従属させる、ネオリベラリズム的なグローバル化の悪しき影響と考えている人は少なくないだろう。
 だが、センはこのような「人間の生存、日常生活、および尊厳」への脅威は、グローバル化の必然的帰結ではないと論じる。グローバル化の肯定的な側面を重視すべきだ。グローバル化に反対する運動もグローバル化に依存しているわけであり、グローバル化を受け入れた上でそのシステムを変更するのは可能なはずだというのだ。
 グローバリゼーションに抗議する人々の多くが、世界経済システムの中で負け犬になった人々のためのよりましな条件を求めてグローバリゼーションに反対しているのは、彼らの言葉とは裏腹に、グローバリゼーション自体に対してではないのです。彼らの要求は、グローバリゼーションによってもたらされる果実と機会のより公平で公正な配分なのです。p.60
 市場経済そのものが悪者なのではない。ヒューマン・セキュリティを増大させていくには市場経済は不可欠だ。問題は市場経済をどのように活用していくかだ。それは、「教育、公衆衛生、土地改革、小口融資制度、弱者に対する法的保護制度などの分野でどのような公共政策がとられるか」によっている。これらの諸分野で適切なシステムを作っていくことによって、グローバルなレベルでの不平等を小さくし、ヒューマン・セキュリティを高めていくことは十分可能だとセンは論じる。
 以上、グローバル化と人間の安全保障についてのセンの議論を見てきたが、欧米の先進国が押し進めてきた資本主義と民主主義による近代化の道を高く評価し、それをさらに押し進めていくことでより公正で安全で豊かな世界が実現すると考えていることが知れる。実際、本書の他の諸章では、文化の多様性を認めることは必要だが、その間の対立は普遍的な論理的思考により克服していくことが可能であり、人類共通の価値による発展が可能であるとの主張が強く押し出されている。普遍的な理念としての自由主義の立場が貫かれており、それが西洋の近代という限定された文化の出自を負ったものであるという考え方が批判されている。
 たとえば、1980年代から90年代にかけて「文明の衝突」を説いたハーヴァード大学の政治学者、サミュエル・ハンチントンの西洋文明の特殊性を強調する論をセンは厳しく批判している。それは人々を単純な指標で区分けする誤った人間理解にのっとっているだけでなく、政治的な対立を増幅し、和解の道を妨げてしまう政治的効果をもってしまう。センは「東洋と西洋」を対置させる論にも同調しない。異質性を強調して他と区別することによってアイデンティティを強調しようとする考え方に支えを与えるものだからだという。
 センの理解するところでは、さまざまな文明においてそれぞれ独自の仕方であるとはいえ、自由や理性が育てられてきた。この人類共通の規範に基づく国家の統合が、また国際的な融和が望ましいし、可能だと論じられる。特定宗教が政治的な主導権をとることを否定する世俗主義(政教分離)もそうした規範から導かれるものだとセンは考えている。それがガンジー、ネルー、タゴールらが西洋にならって導入したもので、国民会議派の世俗主義はインドにとって新しい考え方だとする論をセンは否定する。インドにも特定宗教を相対化し、諸宗教の融和を進める政治的伝統があった。古代のマウリヤ朝のアショーカ王がそうであるし、近世のアクバル王がそうだったとセンは論じる。
 本質的には西洋文明に特有とされてきた概念の多くが、他の文明の中にも存在していたことに気づけば、そうした概念はよく言われるように特定文化に結びついたものでは決してないことにも気づきます。少なくともこうした見解に立つかぎり、我々は論理的ヒューマニズムの前途について悲観主義から出発する必要はなくなります。
 四百年前、アクバル王が宗教に関して国家は中立の立場を保持すべきことを宣言したことを思い起こしてみるのが有益でしょう。当時は、インドにかぎらず世界のどこにもまだ誕生していなかった世俗国家概念の原点をこの宣言書の中に見出すことができるからです。pp.129-130
 センの立場は、ヒンドゥー教とイスラームの対立に揺れてきたインドの歴史を反映している。自由主義への信頼とその普遍性の信念から引き出される寛容や文化的な多様性を超越できるという考え方の背後にはそうした歴史的経験がある。他の視座をもつ人々は、必ずしもそのまま受け入れうると感じないかもしれない。さまざまな異論が予想されるところだ。これは「人間の安全保障」を目標として掲げても、その実現がとても期待できないので空想的な論にすぎないとの異論にも通じるかもしれない。
 しかし、「人間の安全保障」の概念はすでに国際政治の面でも一定の影響力をもつ理念となっている。人間の多様な能力を発達させることと結びつけて「自由」や公正さの意義を拡張し、公共政策にも有益な理論基盤を提示したセンの業績の公共哲学的含意と「人間の安全保障」理念は確かに深く関連しあっている。原発災害で「リスク」や「安全」についてあらためて考え直さなくてはならなくなった日本人にとって、「人間の安全保障」理念は正面から取り組んでよい、重要な思想資源と言えるだろう。

 

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