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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2012年11月 島薗教授おすすめの図書



 池内 了 著
 『科学の限界』 ちくま新書 2012年刊


 本書はこう書き始められる。「2011年3月11日に起きた震災と原発災害は、現代の科学・技術における限界を露呈した。現代の科学技術はあの巨大な地震・津波にまったくたちうちできなかった。原発災害に至っては、科学技術こそが未曾有の災厄をもたらす大きな要因となった。こうして「科学や技術が人々の生活や生産力を向上させる効用だけでなく、事故や災害を通じて大きな災厄を生むという現実。つまり科学・技術には二面性が内在していることをも明らかにした。」(7ページ)
 甚大な被害そして苦しみ悲しみがもたらされた。だが、それは貴重なレッスンともできるはずだ。高い授業料を払ったが、科学技術の限界をしっかりと目に焼きつけたのは大きな経験だ。「特に問題とすべきなのは、科学者・技術者の社会的責任であるだろう。科学者・技術者は自然を改造することによって、あたかも神の代理人であるかのごとく振る舞い、人々に幸福を分配すると自認する役割を演じてきた。」その過剰な自信は打ち砕かれた。「科学や技術に「絶対」はありえず。常に現実との妥協の上で機能させている事実を忘れ、社会に対し安易に安全を保証してきたことの責任が厳しく問われねばならない。」(8ページ)

 このように書き出されているが、本書は必ずしも東日本大震災や原発災害に関わる「科学の限界」を問おうとしたものではない。広く自然科学の現状を見渡しながら、多面的に「科学の限界」が問われている。
 第1章では「科学の終焉」を唱えるJ.ホーガンの論が紹介され検討されている。20世紀中を通して、科学研究者の数、論文数、研究資金は指数関数的に増加してきた。だが、その割に重大な事実の発見は乏しい。すでに見出された事柄の回りで似たような事柄に取り組んで業績を稼いでいるが、20世紀の後半以降、パラダイムを覆すような「科学革命」的発見はなされていないという。トーマス・クーンの用語を用いれば、既存のパラダイムの中での応用問題や微修正を繰り返す「通常科学」に終始している。これがホーガンの主要な論点だ。もちろん、反論はいくらもできるだろう。だが、「衰退」の徴候がないかどうか、科学者はよく振り返ってみる必要があると著者は論じている。「科学の限界」が問われる所以の一つだ。
 第2章「人間が生み出す科学の限界」では、科学も人間による行為であることに由来する限界が問われている。思い込みや利益に引きずられて誤ることもある。自説を正当化しようとして欺瞞が入り込むことも、通説に反対する立場に固執するような傾向も頻繁に見られるものだ。
 第3章「社会が生み出す科学の限界」では、科学が国家や経済利害に組み込まれるようになったことに由来する限界について述べている。19世紀半ばまでは「科学のための科学」という態度が主だったが、次第に「社会のための科学」の性格が強まり、ひいては国家に隷属するかのような事態も生じている。また、科学の商業化も進んできた。経済的利益が得られる分野に研究が集中し、経済的利益に直結しない研究が疎かになる傾向が強まっている。
 第4章「科学に内在する科学の限界」が論じられている。もっと解明したいと思っても、それ以上は先に進めない限界が出てきてしまう領域が増えている。素粒子論レベルのミクロの世界の解明のために国際的に巨額の資金を投じて原子核実験用加速器を作ってきたが、それも限界がある。複雑系を分析するために、さまざまな計算や装置を用いシミュレーションを行ったりする。だが、多くの仮定を織り込んでいるために現実への適用が困難なことも少なくない。3.11の前と後では、原発のリスクの計算はまったく違ったものになってしまうといったことも起こる。
 以上の3章では、現代科学の豊富な知識に基づき、「科学の限界」をどう考えるべきか、科学に疎い素人にも分かりやすく説明がなされている。科学者による一般向けの解説書だが、そのスコープは大変広く、現代科学が抱える諸問題への深い洞察が背後にある。素人が科学について学ぶことの重要性が如実に実感できる叙述がなされている。だが、本書の圧巻というべき部分は、第4章の後半から第5章「社会とせめぎ合う科学の限界」、第6章「限界のなかで――等身大の科学へ」と進む後半の3分の1の部分にある。
 第4章の最後の部分で、著者は次のような論述によって「トランス・サイエンスの問題群」を取り上げる。
「さまざまな科学に内包される限界を述べてきた。それらの限界を認識すれば、すべてを科学に頼るのは危険であることがおわかりだろう。現在は、トランス・サイエンスの時代と言われる。科学に関わっているが、科学のみによっては解決できない問題のことで、その解決のためには科学以外の論理を持ちこまれねばならないのだ。それを科学を越えた(トランス)問題と呼んでいるのである。それは科学の限界に由来する場合があるとともに、科学以外の論理の方がより有効に働く場合もある。」(144ページ)
 続いて、著者はトランス・サイエンスの問題領域を4つに分けて説明している。「一つは複雑系の科学に関わる問題で、現時点では不確実な科学知しか得られない。この場合、科学に頼ることができないのは当然である。」たとえば、地震の予知には限界があるので、そのことを踏まえた対処が必要になる。
 「二つ目は確率・統計現象に関わる問題で、科学では一般的傾向は明らかにできても、個々のケースに対する結果を明示してくれるわけではない。」このよい例はリスク評価だ。「がんの手術の成功確率がわかっても、実際に手術を受けるか否かは本人がさまざまな事柄を考え合わせて決心しなければならない。科学の知見は参照するのみで、具体的な選択は科学以外の事情が考慮されて決まってくる。」
 「三つ目は「共有地の悲劇」が予想される問題である」。「共有地の悲劇」というのは、生態学者ギャレット・ハーディン(1915-2003)が提出した喩え話だ。共有地に多くの羊を飼うことが利益だとしても、羊を増やしすぎるとそのために共有地は荒れて使えなくなってしまう。では羊の数をどこで止めるのか。「科学的にはこの共有地が持続するために飼える羊の数が何頭までとは言えるが、ではどうすべきかについては科学は無力である。」これは要するに「持続可能な社会をいかに建設するかの問題になる。」
 「四つ目は、それによって利益があることは予想されるが、始めから本来的に反倫理性が予想される問題である。」
「例えば原発は、安定して多大な電力を供給してくれるという大いなる利益があることは明白だろう。しかしながら、過疎地への押しつけ、という反倫理性から逃れることはできない。利益を受ける者が被害を受ける者に「押しつける」という人間の非対称が前提となっているのだ。利益と弊害は科学の所産に付きものだが、その弊害が反倫理性にあるという点に特徴があると言えるだろう。」(146-7ページ)
 このあたりから本書は倫理学に立ち入る。福島原発事故があって、こうした問題はきわめて身近な事柄として理解できるようになったものだ。その行為の結果、利益を受ける人の数と幸福の量とが多ければ、不利益を受ける人がいてもそれは良いことだという功利主義の倫理では不十分だ。そこから倫理的な考察や討議を深めていかなくてはならないだろう。多数者に利益が上がるからといって、少数者にガマンを押しつけることはできるのか。「人体実験から得られた知見は多数の人間に適用できて利益があるのだが、人間の倫理として禁止されている。ならば、死が絡まない限り、多くの利益が予想されるとき反倫理性は許容しなければならないものだろうか。」(147ページ)

 こうしたトランス・サイエンス問題を解きほぐしていく際、どのような論理が役立つか。ここで著者は、「科学の限界を補完する論理」をいくつかあげている。現代の応用倫理でしばしば取り上げられる問題に関わるものだ。
 第1は「通時性の論理の回復」だ。近代人は今生きている人間の権利を尊重する原理を打ち立てた。共時性の重視だ。だが、封建社会で尊ばれた先祖や子孫との連帯が忘れられる傾向が生じた。通時性を回復するとは、「今」中心主義を越えていくことだ。とりわけ広い意味での子孫、つまり「未来世代に対する現代人の倫理的責任」を重視しなくてはならない。
 第2は「予防措置原則」だ。現代社会は自由競争至上主義の時代であり、早い者勝ちの世界となり、科学者は一刻を争って先陣争いにしのぎを削っている。だが、これはまともな人間らしい行為のあり方だろうか。著者のいう「予防措置原則」はこうした科学のあり方に歯止めをかけるような原則として思い描かれている。
人間の健康や環境への悪影響や危険性が予想される事柄については、(たとえそれが実際に証明されていなくても)予防的に臨むという原則のことだ。予防的とは、禁止する、小さな基礎実験に留める、いつでも止められ原状に引き返せる、安全への手だてを常に準備しておく、などであろうか。問題によって対応は異なるだろうが、おそるおそるしか進まないという態度である。(149ページ)
 最先端の科学業績をあげようとして「スピード」感をいつも忘れない科学者が聞いたら、飛び上がるほど驚くかもしれない。だが、倫理にかなった本来の科学とはこうした「スロー」原則にそったものだと著者は主張している。
 第3は「少数者・弱者・被害者の立場を尊重する論理」だ。「最大多数の最大幸福」を掲げ、「勝者で利益を多く占有する多数派を優先する」結果を招くのが功利主義の欠陥だ。ここにはこれを是正する視点が示されている。人々は多数派に「乗り遅れまいとして後に続き、より多数な集団を形成する結果になる。すると、それなりに欲望は充足されたかのように錯覚し、「お任せ民主主義」に堕していく。」「そこでは、少数者・弱者・被害者は切り捨てられていくのが通常である。それによって取り落とされている事柄がたくさんあるだろう。倫理性を無視し、利己を優先している側面もあるに違いない。それらは少数者の立場にならなければ気づかないのである。」(151-2ページ)
 第5章、第6章では、今、現実の社会に生起している問題が取り上げられている。焦眉のトランス・サイエンスの諸問題に、第4章で提起されたような補正の論理がどのように適用できるかの応用問題と見てよいだろう。たとえば、バイオテクノロジー問題だ(170ページ〜)。遺伝子セラピーが例にあげられている。すでに受精卵の遺伝子テストで病気の因子のある受精卵を排除したり、男女の産み分けをしたりすることができる。
今後進展しそうなのは生殖系列遺伝子操作で、卵子の遺伝子を直接操作するからクローン人間の作成も可能となるだろう。それだけに留まらず、遺伝子地図が完成して人間の全体像が明らかになれば、遺伝子改変によってデザイナーベビーの誕生も可能となる。いわば人間の品種改良で、神に代わって人間の生命を根本的に変えてしまうという時代が来るかもしれないのである。(172ページ)
 こうした点で倫理に背く科学はすぐそこまで来ており、すでになされているかもしれない。「科学の限界」を無視してどんどん進んでいくのが現代科学の実状だ。第4章であげられている3つの補正の視点は、歯止めに役立つ可能性をもつ倫理的視座を示すものだ。これらを練り上げていく作業を急ぎ進めていかなくてはならない。倫理的歯止めの論理を整える作業は「スロー」に進めるというわけにはいかないかもしれない。
 第6章で著者は、「科学の限界」を自覚した上で、進められるであろう未来の科学の姿を「等身大の科学」「人間を大切にする科学」という語で示している。事実を正直に公開すること、真実に忠実であることなど、科学者の倫理の基本もそこで示されている。このような基本的な倫理性さえ見失ってしまったのは、マンモス化した科学の弱点だ。
 著者のビジョンはこういうものだ。「私は逆に身の丈に合った科学、つまり「等身大の科学」を推進すべきであると思っている。それはサイズとして身の丈の対象を扱うのだが、あまり費用がかからず、誰でも参加できるという意味でも等身大である科学のことである。」(189ページ)アメリカの生命倫理学者で元分子生物学者のレオン・カスの言葉を用いれば、「もっと自然な自然科学」と言い直すこともできるだろう。
 3.11以後、私たちは被災者の生活実感や切実なニーズにほど遠い科学のあり方を見せつけられてきた。大きな予算で研究機関のランク付けに役立つ科学業績の生産に日々しのぎを削らなければならないのが実状だ。だが、その時、今ここで科学の助けを必要としている人びとは置き去りにされている。たとえば原発災害の被災者の健康への配慮はできるだけ小さくし、巨大医学研究の発展に巨費が投じられている。
 著者のビジョンを私なりに言い換えて「人間の顔をした科学」の実現を目指したい。これは理系、文系を越えてあらゆる学術にとっての最重要課題の一つではないだろうか。

 

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