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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2013年1月 島薗教授おすすめの図書



 橋本峰雄 著
 『「うき世」の思想』 講談社現代新書 1975年刊


 死を意識し死者とともにあることを感じながら日々を充実して生きていく。齢を重ね衰えを感じたり、重い病気になったり、その他の理由で死を意識するときに、「いかに生きるか」という課題があらためて切実な問題として迫ってくる。だが、そうであるなら、そもそも人間は初めから「死すべき者」としての自覚を強くもち、それにふさわしい生き方を目指すべきではないか。仏教が「無常」の教説を掲げるときには、そのような考え方が土台の一部となっている。
 宗教だけではない。日本文化には広く無常観が浸透している。「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響あり」と『平家物語』は語り出され、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」と『方丈記』は語り出される。だが、無常であるが故に弥陀の慈悲にすがり極楽浄土への往生を願い、ひたすら念仏にはげむという教えでは現代人の心には届かない。だが、「無常」と密接に結びついたもう一つの概念がある。「うき世」だ。
 「うき世」の語は室町時代から広く用いられるようになり、江戸時代の元禄期には日常用語として頻繁に用いられるようになった。ここには死すべき者として無常を意識し、この世の生のはかなさを自覚しながら、かえってこの世の生を尊んで生きていこうとする考え方が見られる。これは現代人にも響く「思想」でありうるのではないか。また、「うき世」の思想に日本人に特徴的な死の意識、そしていのちの限界と超越性の意識が見てとれるのではないだろうか。神戸大学で西洋哲学を教えるとともに浄土宗の僧籍をもっていた著者は、このような展望の下に日本の「うき世」観の歴史をたどっていく。
 「うき世」という言葉は平安時代からあるし、その言葉の表す内容は万葉集にも見出すことができる。山上憶良はこう歌っている。
世間(よのなか)を憂しとやさしと思へども飛び立ち
 この和歌には「憂き世」としての「うき世」の観念がすでに見えている。この意味での「うき世」の語が登場する早い例は平安時代前期の『伊勢物語』や『古今集』に見られる。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし(伊勢物語)
あしひきの山のまにまに隠れなむうき世の中はあるかひもなし(古今和歌集)
 少し時代が下がって、平安末期、『新古今和歌集』にもっとも多くの歌がとられている西行は、家族のある若き武士だったが出家し高野聖となったが、仏道修行と歌の道とが重なり合っていた。そこでの「うき世」は仏法の教えと深く関わるものだろう。
捨つとならばうき世を厭ふしるしあらむわれには曇れ秋の夜の月
鈴鹿山うき世をよそに振りすてていかになり行くわが身なるらむ
憂き世出でし月日の影のめぐり来て変らぬ道をまた照らすらむ
 著者はこうした「憂き世」意識が極楽浄土信仰と結びつく傾向を重視しており、西行にも浄土信仰があったと述べている。また、「うき世」の観念は早くからこの世を「夢」と見る観念と結びついていた。たとえば、『古今和歌集』の壬生忠岑の歌と西行と歌を見てみよう。
寝るが中(うち)に見るのをのみやは夢といはむはかなき世をも現(うつつ)とは見ず(壬生忠岑)
世の中を夢と見る/\はかなくも猶おどろかぬ我が心かな(西行)
 西行のいう「おどろく」は覚醒する、夢から醒めて真実を自覚するという意味で、仏道に目覚める、あるいは実は夢のようであるこの世の現実の無常を強く自覚することを示唆する表現だ。うき世を離れ遁世したはずのわが身でありながら、なおうき世から離れきっていない、夢の中になおたゆたうように生きているという反省を示した歌だろう。
 中世の「うき世」は「憂き世」の意味が基調だが、近世になって「浮き世」の意味へと転換していくと理解されてきた。これは大筋で適切だが、一定の留保も必要だと著者は言う。
「本書で私が提起したかったことの一つは、たしかに日本人一般の人生観は近世以後現象的には「憂世」観から「浮世」観へ移行したようにみえる、じつは私たちにとっては、もともと「うき世」観が成立した平安時代から「憂世」と「浮世」とは別々のものではなかった、ということである。」(94ページ)
 こうした考え方を反映するものとして、10世紀段階の次のような歌があげられている。仮名をふるとすれば「浮き」とせざるをえないような例だ。
雲ならでこだかき峯にゐるものはうき世をそむくわが身なりけり(『大和物語』)
わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ(小野小町)
 西行では、美的体験に通じる「うき世」にとどまることに喜びを見出すような自己をいぶかしく思う――このような屈折した「うき世」観がしばしば登場する。
世の中のうきをも知らですむ月のかげは我が身の心地こそすれ
世のうさに一かたならずうかれゆく心さだめよ秋の夜の月
さらぬだにうかれて物を思ふ身の心をさそふ秋の夜の月
年の明けてうき世の夢の醒むべくば暮るとも今日は厭はざらまし
 しかし室町後期になると、この世を楽しむことを積極的に肯定するような考え方と結びついて「うき世」の語が使われるようになる。これは「浮き世」観への転換を記すものだ。
なにともなやなふ、/\、うき世は風波の一葉よ
くすむ人は見られぬ、ゆめの/\/\世を、うつゝがほしてなにせうぞ、くすんで、一期は夢よ、たゞ狂へ(『閑吟集』)
 『閑吟集』は16世紀に入る頃の小歌などの歌謡を集めたものだ。粋な色恋を楽しむ情緒が漂っており、遊びや享楽がいくらかなりと肯定されている。「なにともなやなふ」は「しょうもないことよ」と世を歎きつつ洒脱にあきらめるような言葉、「くすむ」は「きまじめにふるまう」と言った意味だ。だが、ここでも無常観は濃厚だ。夢の世にしばしひたりながらも、そこから醒めることが必要との意識は健在だ。「仏を信仰して後生の安楽を願うと同時に、それで安心なのだから浮世狂い(色遊び)もせよ、というのが近世初頭に確立された日本人の「うき世」観ということができよう。」(98ページ)
 安土桃山時代から江戸時代の初期にかけて印刷物が広まるようになって仮名草子、ついで浮世草子というような、世相を活写した書物が刊行されていく。仮名草子の代表的な作家とされる浅井了意は浄土真宗の僧侶にもなった人だが、ずばり「浮き世」を掲げた『浮世物語』を刊行している(1615、16年)。この本は「剽軽(ひょうきん)な瓢太郎という町人の息子が放蕩をしたのち浮世房と名乗る僧になり、ある大名の咄の衆(御伽衆)となって最後は蛻仙(ぜいせん)(もぬけ仙人)で「行方なく失せぬ」ということで終わる」。その冒頭に「浮世といふ事」の一章があり、「浮世」の定義とでもいうべきものが記されている。
「世に住めば、なにはにつけて善悪を見聞く事、皆面白く、一寸先は闇なり。なんの糸瓜(へちま)の皮、思ひ置きは腹の病、当座/\にやらして、月・雪・花・紅葉にうち向ひ、歌を歌ひ、酒飲み、浮に浮いて慰み、手前の擦切[無一物]も苦にならず。沈み入らぬ心立の水に流るゝ瓢箪の如くなる、これを浮世と名づくるなり」。(102ページ)
 「回心」という語で示されている事柄を、竹内は「無」の根底的な自覚(自註12ではこうした難解な哲学的表現を「思想的な貧しさのあらわれ」とする)とも言っている。それは屈辱を「噛みしめる」ところに生じるものだろう。「阿Q正伝」をそのような「回心」の表現として読む。魯迅を師とよぶ竹内が切り拓いた倫理的なビジョンの地平を理解する一つの手がかりがそのあたりにありそうだ。
「世に住めば、なにはにつけて善悪を見聞く事、皆面白く、一寸先は闇なり。なんの糸瓜(へちま)の皮、思ひ置きは腹の病、当座/\にやらして、月・雪・花・紅葉にうち向ひ、歌を歌ひ、酒飲み、浮に浮いて慰み、手前の擦切[無一物]も苦にならず。沈み入らぬ心立の水に流るゝ瓢箪の如くなる、これを浮世と名づくるなり」。(102ページ)
 「思ひ置き」とはあれこれ思い煩うことを指す。「なるようになるから気にしない」で遊ぶことが進められている。現世の享楽を是とするこうした「うき世」観を、著者は「浮世主義」と名づけている。
 この浮世主義の典型的な表現者が浮世草子の大家、井原西鶴だ。豊かな商人だった西鶴は肉親の死を経験して文芸に転じた。子どもの頃から60才になるまで色恋に明け暮れ、最後は好色丸に乗って「女護島」に旅立つという破天荒な主人公を描いた『好色一代男』だが、その男の名は「世之介」、つまりは「浮世之介」だ。著者は西鶴に「転合の精神」を見る高尾一彦氏(『近世の庶民文化』1968年)の考察を高く評価している。

 「転合とはふざけのことである。高尾氏は、それが西鶴の庶民的政治批判の精神の現れであることを発見し、強調されるのである。周到な高尾氏が先蹤を挙げていないところを見ると、おそらくこれは氏の創見といってようのであろう。(中略)
 「転合の精神」とは、「既存の価値の一部を拡大誇張することで笑いとばし、それによって既存の価値をゆるがせ軽しめる」精神である。西鶴の「町人物」では、それは「儒学的概念の義理人情を正面にたてて、その内容はまったく庶民的人情つまり庶民の経験的合理意識にすりかえてしまう」ことで表現される。(中略)
 ところで、高尾氏の書物で、近世庶民の倫理意識・美意識・政治批判意識の成立の理由はどのように説明されているだろうか。」(28-29ページ)
 たとえば、西鶴の『武家義理物語』の序文には、「それ人間の一心、万人ともに替れる事なし」と記されている。これについて、高尾氏は「武家の儒教道徳とは別に庶民が自己の倫理を独自に発達させてきた」と解釈しているが、著者はこれではもの足りない、仏教の影響をもっと重んじるべきだという。
 私見では、西鶴が作品の随所に挿入していて、高尾氏もそのわずかを引用されている「六十の前年より楽隠居して、寺道場へまいり下向して」とか「正直なれば神明も頭に宿り、貞廉なれば仏陀も心を照す」とかいった文章は、ふつうなされているようにそう軽く読みとばすべきではないと思う。それはいかにも卑俗ではあろう。しかしそれが庶民にまでおりてひろまった仏教であり、それは庶民のエトスを作った一因として無視できないはずである。(31ページ)
 著者は西鶴についての高尾一彦氏の論述を参照しながら、「うき世」観の背後に近世日本庶民の倫理意識の形成を見て取り、そこに「無常」の世を生きる平等な人間同士の連帯という仏教的な世界観・人間観を読み取ろうとしている。公平に見れば、仏教、儒教、神道、また諸階層の人々の共同意識がさまざまに関与して形成されたものだが、仏教が重要な役割を果たしたことは確かだろう。橋本が明確に指摘していないのは残念だが、無常にさらされた弱い人間=生きもの(衆生)においてこそ、平等な者同士として理解し合い支え合う精神が育つという視点が重要だろう。
 著者が「銭湯についての日本人の実感をこれほど見事に表現した文章はないだろう」と述べる式亭三馬の滑稽本『浮世風呂』(1809-1813)の冒頭部「浮世風呂大意」には次のように述べられている。

「熟/\(つらつら)監(かんがみ)るに、銭湯ほど捷径(ちかみち)の教諭(おしへ)なるはなし。其故如何となれば、賢愚邪正貧福貴賤、湯を浴んとて裸形(はだか)になるは、天地自然の道理、釈迦も孔子も於三も権助も、産れたまゝの容(すがた)にて、惜い欲いも西の海、さらりと無欲の形なり。欲垢(よくあか)(よくあか)と梵悩と洗清めて浄湯(をかゆ)を浴れば、旦那さまも折助(武家の下男=島薗注)も、孰(どれ)が孰やら一般裸体(おなじはだかみ)。是乃ち生れた時の産湯から死だ時の葬灌(ゆかん)にて、暮(ゆふべ)に紅顔の酔客(なまよひ)も朝湯に醒的(しらふ)となるが如く、生死一重が嗚呼まゝならぬ哉。
 こうした「うき世」的な人間観は、明治維新後も引き継がれているのではないか。著者は福沢諭吉の「うき世」観を引いて、それまで感覚的だった「浮世」感が、福沢に至って論理化され「浮世」観になったと述べている。
「むろん福沢は無神・無仏論者である。しかしそれにもかかわらず、福沢の晩年に仏教的な世界観・人生観、「浮世」観を読み取ることができるのはおもしろいことである。(中略)
「人生は見る影もなき蛆虫に等しく[福沢はまた、塵のごとく、溜水に浮沈する孑孑(ぼうふら)のごとし、ともいう]、朝の露の乾く間もなき五十年か七十年の間を戯れて過ぎ逝くまでのこと」であり、このように「内心の底に浮世を軽く見るがゆえに、よく決断して活発なるを得」るのであって、「人間の安心法はおよそこのへんにある。」
 これが福沢の人生観であり、「根本の安心法」である。(118ページ)
 福沢の場合、『浮世風呂』に現れているような平等な庶民の連帯感というより、世間に距離を取った隠棲知識人の達観という趣が強い。だが、いずれにしろ福沢の言葉を通して、「うき世」観が「無宗教」を自認する現代日本人にとって大いに身近なものであることが実感されてくる。
 著者の洞察は死を意識しつつこの世を真摯に生きる日本的倫理観の伝統を巧みに照らし出していて、示唆に富んでいる。

 

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