倫理良書レビュー 2013年4月 島薗教授おすすめの図書



 影浦峡 著
 『信頼の条件−原発事故をめぐることば』
              (岩波科学ライブラリー)岩波書店 2013年刊


  福島原発災害では科学者(広くは文系の学者も含めて研究者と言った方がよいこともある)や専門家の責任が問われている。科学者や専門家の信頼が失墜したことも確かだ。そのために、社会全体が信頼感の喪失に苦しんでいる。科学者・専門家の倫理が問われているといってもよいだろう。
 では、科学者・専門家が問われるべき責任の内実は何か、信頼を失墜した理由は何かということになると、必ずしも明らかにされていない。そうであれば、何をどう改めていけばよいのかの見通しが立たないことになる。
 情報学やメディア論を専攻する影浦峡氏の『信頼の条件―原発事故をめぐることば』は、この問題に挑んで鋭い考察を行っている。まずは、まとまった論点が提示されている第2章から第4章までの論述を私なりに紹介していこう。
 第2章「事実としても科学としても誤った発言の跋扈」では、「科学者」と「専門家」を区別し、独自の意味をもたせていて啓発的だ。科学者は「新しいことを探求し、自分の発言に挙証責任を負う人」とされる。科学者は「新しいこと」に開かれているとともに、他者の探求に「挙証責任を負う」という意味でも開かれた論を行う者と理解されている。科学が元来もっていた倫理的な側面を掬い上げている。他方、専門家とは「ある領域に関してこれまでに解明された知識や技術、ノウハウを十分に有している人」とされる(13ページ)。
 「科学者」は他者や新たなものに開かれた姿勢で向き合いその結果に責めを負う者だが、「専門家」は既存のものに習熟している限りで責めを負う者だ。福島原発災害で露わになったのは、「専門家」ではあっても「科学者」の姿勢に欠けた人たちが多々、公衆の前に姿を表したということだ、つまり「科学者」が「専門家」であることに満足してしまう現代という捉え方になる。
 原発推進の過程と原発災害後の状況のどちらにおいても、新しい事柄に向き合わず、自らの前提を問い返さない専門家が目立ち、閉ざされた論が当たり前のように行われてきた。影浦氏が引く小咄を読むと、原発災害の例がすぐに思い浮かんでしまう。「わたしのかかりつけのドクター は、とてもいい人でね…手術が必要だと分かって、でも患者はその費用がどうにも払えないって場合、彼は逆にレントゲン写真のほうを、きれいに修正してくれるんだ」(28ページ)。
 たとえば、原子力工学の大橋弘忠東大教授の発言。「事故のときどうなるかというのは…起きもしない確率についてやっているわけですね」「皆さんは原子力で事故が起きたら大変だと思っているかも知れませんが、専門家になればなるほど格納容器が壊れるなんて思えないんですね」(15ページ)。また、国会事故調報告書によると「安全委員会は…全交流電源喪失の可能性は考えなくてもよいとの理由を事業者に作文させていた…」(30ページ)。影浦氏はこれを「循環論」、つまり「結論から遡って議論を構成する循環的な議論の形式、それを成り立たせるための結論にそぐわないことについてはなかったことにするような立論」と特徴づけている(26ページ)。
 結論に合わせて「事実」を作る「専門家」がいる。「専門的知識」に従って、それによっては説明できない新たな現象が排除される構造になっている。水俣病でも同じようなことが起こった。水俣病の患者とともに真実を明らかにしようとしてきた原田正純氏は言う。
一般的に定説と言われるものは、多くは仮説である。ある時期までの研究によって得られた結果でしかない。それは常に、新しい事実によって変革され、書き直されるべきものである。しかし、しばしばその定説が権威をもつと、それを守ろうとする権威者が出てくる。そうした発想は、権威を守ることに執着するだけでなく、新しい事実や発想に蓋をしてしまう作用をすることになる。何の疑いもなく権威を守り、新しい事実に目をつぶること、それは真の権威ある者、医学(科学)するものの態度とは言えない(35-36ページ)。
 水俣病などのさまざまな公害や原爆による被害は人類が初めて経験することだ。
人類がはじめて経験する事件であるということは、もともとどの教科書・研究書にも実験データも経過の記録もないということを意味する。したがって、こうした事態にははじめから対処しうる専門家などはいないはずなのである。(中略)問題は人類初の経験であるという謙虚さを、専門家がもっているかどうかである。事実を知らないいわゆる専門家が謙虚さを失った時、どれほど社会に害悪を残すことだろうか(36ページ)。
 謙虚は科学の重要な徳だ。だが、この徳を忘れて専門家の権威を振り回す人が多い。放射線の被害はないはずだ、これぐらいの放射線は安全だという医学者はその典型例だ。もっとも心理学者がいう「仮説確証バイアス」(35ページ)は広く見られる。対立のあるところでは双方に生じがちで、放射線の安全性については慎重派も免れない。だが、原発では強大な構造的組織的力が加わり、科学の開いていく働きが作動するのが未だに困難なままだ。

 続いて第3章「社会的に適切さを欠いた発言はどのようになされてきたか」を「科学の社会性の自覚」という視点から捉えてみる。ここでは、科学者が専門的知識を市民に伝えているつもりだが、実は社会的判断に深く関わり強い立場性をもった発言をしているのにそれに気づいていない(ふりをしている)例が取り上げられている。
 2011年3月19日の日本産婦人科医学会会長声明は今から見ればまったくの誤りだが、おおよそ当時から不確かだったことと言ってよい。「レベル7であった史上最大のチェルノブイリ原発事故の時でも、約50キロ離れていれば、健康を守るには十分であった」とか「国からの情報は、多くの機関から監視されており、正確な情報が伝えられていると評価されます」などだ。だが誤情報を「素朴に」信じたということよりも、それに基づき専門家として他者によびかけ、そのことで専門性そのものを傷つけるような形で言明がなされていることがより大きな問題だと影浦氏はいう。これはもちろん「信頼の条件」に関わる。社会規範や共有されている価値に関して知識や思考、さらには討議が浅いままに、共有されていない自分の規範理解や価値判断が正当だと思い込んでいる例が引かれている。
 地球産業技術研究機構理事長、茅陽一氏の「原子力と自動車の安全性」(日本原子力学会誌第54巻8号)にはこう述べられている。「原子力の損失が自動車利用の損失とさほど違わないものであることはたしかだろう」。だが自動車を止めろという人はいないではないかと(45ページ)。自動車と原子力の利用の違いは多々ある。原子力では被害者と加害者が交換できない関係にあること、被害を回避するのが困難であることなど。これは法的にも確認されてきた。たとえば学校給食の中毒をめぐる裁判では、「児童にはこれを食べない自由は事実上ないこと」、「学校給食を食べる児童が、抵抗力の弱い若年者であること」などをあげ、「学校給食には、極めて高度な安全性が求められている」との判決文がある(47ページ)。
 ここでは〈被害を避けることができない弱い立場の人の生命を守るべし〉という社会規範が確認されている。「立場の非交換性と被害の回避困難性」は原発による放射線被害にあてはまるが、自動車事故ではあてはまるとしても度合いが相当に異なる。自動車は多くの人が加害者にも被害者にもなりうる事柄だが、原発ではそうではない。だから、立地に困り、立地候補地では必ずといってよいほど長期の反対運動が起こる。茅氏は自分がもつ科学的な知見の優位性を誇っているつもりだが、実は社会規範に踏み込み、それについて適切に扱えていないことを露呈してしまっている。
 自分の専門領域の知見を展開して、実は社会的規範に関わる言明をしているのだが、その応用が不用意かつ不適切なことが多い。そもそもリスク論にはそのような錯覚をもたらす機能があるようだが、専門家側はそのことを自覚していない。影浦氏は 「ある対象を捉えようとする際にそもそも不適切あるいは不十分な考え方や手法しか用いていないという意味で非科学的なものです」という。社会常識に近いレベルの社会的な思考の欠落が自覚できず、そこまで科学的言明の延長と見なすのは、いうまでもなく非科学的な態度である。
 科学者が科学の名において社会規範や政治判断の領域に踏み込み、不適切な社会的言明を専門科学の正当な行使だと思い込んでいる。これは科学の徳としての謙虚さに反するものだ。適切な科学的思考は適切な社会倫理性と相即すると影浦氏は見る。

 続いて、第4章「どのようにして信頼を支える基盤が崩壊したのか」とそれに先立つ「インターミッション」では、本書の表題の「信頼の条件」が正面から扱われている。第2章、第3章の主題である「倫理」から「信頼」へ焦点が移るが、結局は同じ問題だ。専門家の倫理性が崩れてしまっているために、専門家(と専門家に依拠する側)が正当性を欠いた力を市民に行使する事態を招いており、「信頼の条件」そのものを掘り崩しているということだ。
 影浦氏は情報学の理論を用いて「信頼」を構成する諸要素について論じている。ふつう信頼は、力を行使する側の「クレディビリティ」があり、その影響を受ける側の「トラスト」が生じるところに成立する。その場合、重要なのは行為と言語情報とが照応することだ。言語情報の形式的整合性があっても文脈と内容的に合わないと信頼は崩壊してしまう。クレディビリティを超えてひたすら信頼が成り立つのは「フェイス」(信仰)だが、クレディブルな情報を提示していないのに「信頼」して下さいという言葉が発せられれば、「トラスト」ではなく「フェイス」を求めていることになる。
 2011年3月19日の日本産婦人科学会会長声明では「国からの情報は、多くの機関から監視されており、正確な情報が伝えられていると評価されますので」とあるが、これは誤った(クレディビリティに欠ける)情報だ。だが、それに続いて「誤った情報や風評等に惑わされることなく、冷静に対応されますようお願い申し上げます」と一般市民に呼びかけている。この発信行為の実質内容は、国はクレディビリティがあり問題はトラストやフェイスを失っている市民の側にあるとの訴えだが、国にクレディビリティがあるという自らのクレディビリティの低さを裏書きしてしまっている(72ページ)。
 2011年7月8日の緊急討論会「震災、原発、そして倫理」での哲学者、一ノ瀬正樹氏の発言――「まだphysicalな被害がほとんど顕在化していないにもかかわらず、なぜ我々はここまで不安を抱くのだろうか」について影浦氏はこう批評する。「このような発言は…危険性のある、あるいは不当な状況が現実に存在してしまっていることという、本来扱われるべき問題を隠蔽し…不安の原因ではなく、不安そのものを問題視します」(76ページ)。確かな科学的情報が欠けているという事実には蓋をして、トラストを失って不安を抱く市民に問題ありと示唆する発言だ。専門家に疑いをもつ市民に不当に責任を被せているのだが、それが社会行為として不適切であることに気づいていない。
 それはまた、不安の原因に注意し、適切な対応をとることから注意を背けさせる効果をもつ。もう一つ環境省の「放射性物質による環境汚染情報サイト」からの例を引こう。「一方、子どもや妊婦の被ばくによる発がんリスクについては、100ミリシーベルト以下の低線量被ばくでは、発がんリスクの明らかな増加を証明することは難しいとされています。しかし、100ミリシーベルト以下の低線量被ばくであっても、住民のみなさまの大きな不安を考慮に入れて、子どもや妊婦に対して優先的に取り組むことが適切です」。この「しかし」は「ですから」とすべきものだし、「住民のみなさまの大きな不安を考慮に入れて」は不適切だと影浦氏は言う(78ページ)。
 ここでは「専門家」は「本当は対策をとる必要はないのだけれども、不安がる住民がいるから恩寵としてやってやろう」と述べていることになる。責任は国の側にはなく、不安がる市民の側にあるとする「倒錯した態度がまかり通る状況が作り上げられてしまう」。クレディビリティを回復する措置を取り、それにふさわしい言葉を述べるのではなく、トラストできないことに問題があるとして、トラストを強要し(フェイスを求め)ている。このように「信頼の喪失は市民/被害者の側の問題だとする効果をもつようなかたちで発言がなされる状況では個々の発言の内容をめぐる信頼だけでなく、信頼そのものを支える基盤が社会の中で失われるのも無理はありません」(79ページ)。

 第2〜4章で述べられていることをまとめてきたが、第1〜5章までで総合的に述べられていることは何か。力を行使して問題を起こした側のクレディビリティ喪失を認めず、市民の側の「不安」に主要な問題があるとする専門家が権威を行使し続けている。社会がそのことを容認し倫理的に疑わしい言説がまかりとおることになった。個別のコミュニケーションにおいて信頼喪失が深まるだけでなく、社会状況において広く「信頼の条件」が失われていく結果を招いている。科学の倫理性の喪失(第2章)、科学情報に関わる社会倫理的な自覚の欠如(第3章)が基礎にあるが、それを社会が支えてしまっているために、「信頼の条件」そのものが崩れてしまっている。科学の倫理性の欠落、社会倫理性の自覚の欠如は、力を行使する側が信頼の条件を失った原因を省みることの欠如と不可分だ。
 私なりの説明を足しておくが、「不安をもつな」「トラストをもて」という専門家、あるいはそう述べる専門家を支持する人々は、災害や汚染を起こした側との自覚をもっていないことが多いし、その意味での加害者側とは言えないだろう。だが、疑われている分野の専門家の権威によって、あるいは専門家の権威に乗って危うい情報を発しているということでは社会倫理にふれる行為をしてきている。専門家のクレディビリティが失われたという事実を認知できないか、認知してもそのことを軽んじて否認しようとしているのだ。
 リスクや安全性に関わる科学の倫理性、科学が社会規範・社会的判断に関わる際の倫理性、そしてそのことが社会的な「信頼の条件」そのものを掘り崩している状況について、本書は鋭く分析している。
 では、どうして原発においてこのような事態が生じるのか。多くの人に被害を及ぼす可能性があるが、その被害が見えにくいこと、また受益者と潜在的な被害者が切り離されがちであること、そして巨大な政治的軍事的利益がからんでいるために情報が隠され真実が見えにくくされていることなど、原発がはらむ特有の性格と大いに関わっている。
 本書では水俣病の例が引き合いに出されていて効果的だ。原発問題は確かに公害問題と関わりが深い。だが、全国家的な、また核保有国を中心とする国際的な力、あるいはグローバル社会の利害関係が深くからんでいるという点では独自のものだろう。これほどまでに多くの専門家の信憑性の欠如が露出し、にもかかわらず政治的に擁護されている事態はこうした歴史的背景から説明できる部分が大きいだろう。著者はそうした歴史的構造的文脈から論じることはしていないが、そうした論と結びつけることで、本書の鋭利な分析からさらに大きな力を引き出していくことができるだろう。

 

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