倫理良書レビュー 2013年5月 島薗教授おすすめの図書



 マイケル・サンデル 著
 『完全な人間を目指さなくてもよい理由
            −遺伝子操作とエンハンスメントの倫理』
                        ナカニシヤ出版 2010年刊



 京都大学の山中伸弥教授がiPS細胞を生み出した功績を称えられノーベル賞を受賞したのは日本人としてうれしい知らせだった。脊髄損傷などiPS細胞を用いた医療により治癒や大幅な症状改善が望まれる方々やその周囲の方々のためには、これを機会に再生医療のいっそうの発展を期待したいところだ。現代医療は人の生命のあり方を変えていく夢の医療の実現に向かっていくのではないかと考える人もいる。
 だが、行く手には大きな難問が横たわっている。人のいのちのあり方を変えていく医療とはそもそも人類にとって福音なのだろうか。病気や障害で苦しんでいる人を助けることは福音だが、同じ医学知識・医療技術が人々の欲望を満たすために用いられ、人類社会の基本的な価値観や倫理的基盤を掘り崩してしまうのではないか。人のクローン胚の利用やES細胞(胚性幹細胞)の利用が引き起こすと懸念された倫理問題は、iPS細胞から切り拓かれていく新たな科学技術においても避けられない問いとしてのしかかっている。
 2000年前後から活発になってきた「エンハンスメント」をめぐる議論は、この新たな倫理問題に深く関わるものだ。レオン・カスを座長とする、ブッシュ大統領の生命倫理評議会はこの問題を正面から取り上げた。『治療を超えて――バイオテクノロジーと幸福の追求』(青木書店、2005年、原著、2003年)がその成果だ。その後、この企てに一因として加わっていたマイケル・サンデルは、『治療を超えて』の主調音とは異なる論点を提示した書物を刊行した。それがこの『完全な人間を目指さなくてもよい理由』(The Case against Perfection: Ethics in the Age of Genetic Engineering)だ。題は『より卓越した人間の追求に反対する理由』と、副題は『遺伝子操作の時代の倫理』と訳した方がよいかもしれないが、実は「エンハンスメント」が主題である。
 「エンハンスメント(enhancement)」は「増進的介入」とか「増強」などとも訳される語だ。病気を治すというより、望む方向に人間を変えるために医療を用いることを指している。「治療」はふつうの人間の機能を果たしうるように医療的措置を施すことだが、「治療」以上のものを求めるために医療を用いるのが「エンハンスメント」だ。美容整形はそのよい例だが、性格を変えたり、能力を高めたりというようにその領域が広がっていきつつある。再生医療はこの促進に大きく貢献するだろう。
 では、エンハンスメントに歯止めをかけることができるだろうか。エンハンスメントはよくないと倫理的な判断を下すとすれば、その根拠は何だろうか。サンデルは本書でこの難問に対する答えを指し示そうとする。
 2つの論題が取り上げられている(第2章、第3章)。1つはスポーツ選手の身体能力強化だ(第2章)。薬物だけでなく遺伝子操作まで含めて身体能力を高めるための医学的方策が求められている。それが安全であり、公平さという点での問題が小さいとしても、やはり自由放任は好ましくないのではないか。では、なぜそれは好ましくないのか。ひとつの答は、それは「自分自身の力でやりとげた」という個人の達成の本来性を奪ってしまうからというものだ。その人自身の力でなしとげてこそ達成の意味があるのに、科学技術の力を借りてバイパスしてしまえば、自分自身の達成とは言えないことになるだろう。個人の自由を拡充するように見えて、個人を他の力に依存させるもので、自由を狭めることになる。『治療を超えて』の主調音をなすのはこういう批判だ。
「エンハンスメントや遺伝子操作によって脅かされる人間性の一側面としてときに挙げられるのは、自分自身のために、自らの努力を通じて自由に行為する能力や、自らの行為や自分のあり方にかんして責任を持つ――讃美や非難に値する――のは自分にほかならない、と考える姿勢である。ステロイドや遺伝子増強(エンハンス)された筋肉の力を借りてホームランを70本打つことは、弛みない練習や努力の結果としてそれだけ打つこととはまったく別物であり、それよりも劣る事柄だというのである。」(28ページ)
「こうしたサイボーグ選手が行為主体であることはありえないと思われる。というのも、「彼の」達成は、彼を作り出した人物の達成となるだろうからである。この見方に従えば、エンハンスメントがわれわれの人間性を脅かすのは、それが人間らしい行為主体性(agency)を蝕むからである。その行き着くところは、人間としての自由や道徳的責任とは相容れない、完全に機械論的な人間行動理解である。 」(29-30ページ)
 だが、この批判は図星をついておらず、まちがっているとサンデルは論じる。「それよりもいっそう深刻な危険性は、それらが一種の超行為主体性(hyperagency)、すなわち、人間本性も含めた自然を作り直し、われわれの用途に役立て、われわれの欲求を満たしたいというプロメテウス的な熱望(Promethean aspiration)の現われとなっていることにある」。人が自己自身の本来の達成を得られなくなってしまうということよりも、達成を求めるという形で支配への衝動を強めていくことにこそ問題がある。本書の標題にある「より卓越していること(perfection)を目指す」こと、それに取りつかれていることが問題だというのだ。
 そして、支配への衝動が見えなくしてしまうもの、破壊してしまうかもしれないものは、卓越による達成に先だって人に元来備わっているはずのものだ。では、エンハンスメントにおいて見失われている人間の本来的なあり方とは何か。サンデルはそれを「恵み」とか「授かりもの」(giftedness)の語で指し示そうとしている。訳書では「被贈与的性格」となっているが、日本語としての響きを重視して「恵み」「授かりもの」と訳しかえて述べていこう。
「恵みとしてのいのち(giftedness of life)を承認するということは、われわれが自らの才能や能力の発達・行使のためにどれほど努力を払ったとしても、それらは完全にはわれわれ自身のおこないに由来してもいなければ、完全にわれわれ自身のものですらないということを承認することである。また、それは、世界のありとあらゆる事柄が、われわれが欲求し(desire)たり考案し(devise)たりするために用いられてよいわけではないということを認めることでもある。」(30ページ)
 恵みとしてのいのち、授かりものとしてのいのちという事実が適切に理解されるならば、プロメテウス的な計画には制約がかけられ、ある種の謙虚さが生まれるだろう。それは、宗教的感性として理解できるとこともある。だが、この理解は宗教だけが持っているものではない。特定宗教をもたないような人々にも理解され共鳴を呼ぶものだとサンデルは論じている。
 このことがもっと見やすくなるのは、好ましい遺伝子の子どもを産もうとする「デザイナー・ベイビー」に見られる、子どもの選別や改造という第2の論題だ(第3章)。
「『恵みとしてのいのち・授かりものとしてのいのち』の倫理はスポーツでは落城の危機に瀕しているものの、子育てという営みの中では今なお命脈を保っている。だが恵みや授かりものとしてのいのちの倫理は、ここでもまた生物工学や遺伝子増強(エンハンスメント)によって追放されるという脅威に見舞われている。子どもを授かりもの・恵み(gift)として理解することは、子どもをそのあるがままに受け止めるということであり、われわれによる設計の対象、意志の産物、野心のための道具として受け入れることではない。子どもが偶然持ち合わせた才能や属性によって、親の愛情が左右されることはない。」(49ページ)
 親は元来、どんな子どもに対しても、その子をあるがままに受け入れるという姿勢を持っているはずだ。子どもは親がそうあってほしいというようには生まれないし、育たない。それでも親は子どもへの愛を失うことはない。
「子どもの性質は予測不可能であり、親がどれほど念入りに事を進めようとも、自分の子どもがどんな子どもなのかについて完全に責任を取ることはできない。だからこそ、子どもの親であることは、他のどのような人間関係よりも、神学者ウィリアム・F・メイの言う「招かざるものに開かれた心」(openness to the unbidden)」を教えてくれるのである。」(49-50ページ)
 ここでも訳語を少し変えている。訳書ではopennessを「寛大さ」と訳してあるが、ここでは「開かれてあること」「開かれた心」と訳したい。(またunbiddenは「招かれざる」ではなく「招かざる」としたい)
「メイの含蓄に富んだ言葉が意味しているのは、支配や制御への衝動を抑制し、授かりものとしての生・恵みとしての生という感覚を呼び覚ますような、人柄や心持ちである。それは、われわれに以下の事柄を教えてくれる。すなわち、エンハンスメントに対するもっとも根源的な道徳的反論は、エンハンスメントの先にある人間の完全化よりも、エンハンスメントが具現したり促進したりする人間の性向に向けられている。問題となるのは、親が設計によって子どもの自律を奪うことではない(設計されなければ、子どもが自分の遺伝的形質を自ら選び取れるというわけでもなかろう)。むしろ、問題の所在は、設計をおこなう親の傲慢さ、生誕の神秘を支配しようとする親の衝動のうちに認められるのである。むろん、このような性向があるからといって、親が子どもに対して暴君のように振る舞うことにはならないのかもしれない。だが、こうした性向によって親と子の関係は汚され、招かざるものに開かれた心を通じて育まれるはずの謙虚さや人間に対する幅広い共感能力が、親から奪い取られてしまうのである。」(50-51ページ)
 子に対する親の愛には「無条件の愛」という性格が基底にある。だが、それは「親が子どもの発育に影響を与えたり方向づけたりすることを慎まなければならない」ということではない。逆に、親には子どもを教育する義務や、子どもが自らの能力や天賦の才を見つけ出し、育んでいくのを支援する義務がある。「メイが指摘するように、親の愛には、受容の愛と変容の愛という二つの面がある。受容の愛とは子どもの存在を肯定することであり、変容の愛とは子どもの福利を探求することである」(54ページ )とサンデルは論を進める。バランスが問題なのだが、現代社会は「変容の愛」に傾きがちであり、そのことが子どもの心を、そして親の心をも脅かす傾向が顕著なのだ。そしてエンハンスメントはまさにそうした「変容の愛」「変容への強迫」を強めていくことになるだろう。
 こうした傾向は個々の親子関係、また親や子どもを脅かすだけではない。それは人類社会のあり方を変えてしまうだろう。本書の最後の章(第5章)でこの問題に踏み込んでいる。
「なぜわれわれは、エンハンスメントに対する不安をまったくの迷信として斥けてはならないのか。仮にバイオテクノロジーがわれわれの被贈与性の感覚を打ち砕いたとして、それで何が失われてしまうのだろうか。
上の問いに対する回答は、宗教的観点からすれば明白である。すなわち、われわれの才能や能力は完全に自分自身のおこないに由来しているという信念は、天地創造の中での人間の立ち位置を誤解しており、人間の役目と神の役目を混同しているのだ、というわけである。だが、いのちが恵みであることを気にかけなければならない理由は、宗教だけに求められるわけではない。ここでの道徳的問題は、世俗的な言葉で表現することもできる。もし遺伝学革命によって、人間の能力や偉業の恵みとしての性格に対するわれわれの謝意が蝕まれていくならば、われわれの道徳の輪郭を形作っている三つの主要な特徴、すなわち、謙虚、責任、連帯に、変容がもたらされるのである。」(89-90ページ)
 まず「謙虚」という徳。
「とかく支配と制御がもてはやされる世の中において、子育ては謙虚さを学ぶ格好の機会である。われわれは子どものことを深く気遣っているものの、われわれの望みどおりの性質を子どもが備えるように運ぶことはできない。この事実を通じて、親は招かざるものへの開かれた心を教えられるのである。そうした開かれた心は、たんに家族の内側だけでなく、より広範な世界の中でも受け入れられてしかるべき性向である。それによってわれわれは、不測の事態を引き受け、不和を耐え忍び、制御への衝動を抑え込むことが可能となる。 」
 次に「責任」についてはどうか。ここでの議論はやや複雑だ、エンハンスメントは責任を侵蝕するのではない。むしろ責任を過剰に増殖させる。そして責任が過剰に増殖することによって人間らしい生活が脅かされるとサンデルは論じる。
「遺伝子増強は努力や闘志を蹂躙し、人間の責任を蝕んでしまうものだとされることもある。だが、本当の問題は、責任の侵蝕というよりもその増殖にある。謙虚さが道を譲ると、責任は恐ろしいほど拡大していく。われわれはより多くの物事を、偶然のせいではなく選択のせいにするようになる。親は、子どもたちのために適切な性質を選び取ること/選び取らないことに対して、責任を負うようになる。」(91-92ページ)
 しかしそれは幸福な親子関係をもたらすだろうか。愛が損なわれないだろうか。また、親にとっても子にとっても幸福なことだろうか。
 そして最後に「連帯」が取り上げられる。

「皮肉なことに、自分自身や子どもの運命に対する責任が増殖するにつれて、自分よりも不幸な人々との連帯の感覚は薄れていく可能性がある。われわれが自らの境遇の偶然的な性質に自覚的であればあるほど、われわれには他人と運命を共有すべき理由が認められるのである(中略)」(94ページ)。
「このように考えてみると、連帯と恵みへの感性との結びつきが明らかになる。われわれの天賦の才は偶然なのだという強固な念――誰一人として自分自身の性向に対する完全な責任を有している者はいないのだという意識――こそが、成功は有徳さの証であり、裕福な人々は貧困な人々よりもいっそう富の享受に値するがゆえに裕福であるのだという独善に似た思い上がりが、能力主義社会の中に醸し出されてくるのを防いでいるのである」(96ページ)。
「遺伝子操作を用いることで、遺伝上のめぐり合わせによる結果を覆し、偶然を選択に代えることが可能になると、人間の能力や達成の被贈与的性格は薄らいでいくだろうし、おそらくはそれとともに、われわれが自らの運命共同体の一員として理解する能力も薄らいでいくだろう」(96ページ)。
 本書は、エンハンスメントについて、また人間改造の生命科学や医療について考えるときの基本的な論点を明快に示している。人間改造には歯止めが必要だという直観の背後にある論理はどのようなものか。それを明るみに出したという点で本書はたいへん重要な書物だ。だが、本書の射程はエンハンスメント問題に留まらない。現代の科学技術への哲学的批判として、もっとも鋭いものの一つと言ってよいだろう。
 「授かりもの・恵みとしてのいのち」を感じ取って生きていくことが、倫理の根本にある。そしてそれは諸宗教が教えて来た何かとつながっている。諸宗教では「感謝」が唱えられることが多い。だが、それは特定宗教を超えている。
 日本では「いただきます」、「生かされている」、「おかげさま」、「もったいない」などの言葉が好まれる。サンデルの論はこうした言葉を思い起こさせてくれる。日本人の倫理観に即して現代科学技術の倫理を考えていく際の手がかりをも示してくれている。具体的な論題に即して適用し磨き深めていくべき思想だと思う。

 

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