倫理良書レビュー 2013年8月 島薗教授おすすめの図書



 イマニュエル・カント 著
  『永遠平和のために』
     (宇都宮芳明訳)岩波文庫 1985年、原著初刊 1795年



 お通夜や葬式で故人の遺影に向かい、「長い間ありがとうございました。安らかな永久の眠りにつかれますように」と念ずる。「永遠の平安・安らぎ」というこの言葉を英語に直せば”eternal peace”となる。墓石に彫り込んだり、墓地に掲げられたりする句なのだが、18世紀末、あるオランダの旅館業者がユーモアによる客引きだろうか、これを看板に用いた。カントはこの話を枕に哲学的政治論の著作を始めている。
「永遠平和のために」というこの風刺的な標題は、あのオランダ人の旅館業者が看板に記していた文字で、その上には墓地が描かれていたりしたが、ところでこの風刺的な標題が、人間一般にかかわりをもつのか、それともとくに、戦争に飽きようともしない国家元首たちにかかわるのか、それともたんに、そうした甘い夢を見ている哲学者たちだけにかかわるのか、といった問題は、未決定のままにしておこう。(11ページ)
 「永遠平和」という言葉は、墓地での言葉ではなく政治思想に関わるものだとすると、とたんに「胡散臭い」との反応が出てきそうだ。力で動く政治の現実を知らぬ観念論者のたわごとだと。カントはそのことを百も承知で、初めから巧みに予防線を張っている。政治は複雑な利害関心を現実的に処理していかなくてはならないことばかりだ。だが、そこに倫理的な理念が関わっている、国際的な「永遠の平和」はその倫理的理念の重要な次元だ――このような考え方が背後にある。
 政治と倫理には深い関係があるが、その関係は単純ではない。政治的な判断をするときに倫理的な基準が問われることがある。たとえば、生命倫理や環境倫理というような領域では、政治的な課題と深く関わる倫理問題が論じられる。しかし、倫理的な基準を強く打ち出すと政治的には非現実的で有害だと見なされることもある。倫理的な理想主義では現実は理解できないという考えは、政治に関わる者が強く意識しているところだ。
倫理は個々人の対面的な関わり、「顔」に向き合う関係、「我と汝」の二人称的な間柄においてこそ本来的に現れるという理解もある。カントの義務論的な倫理説では「定言命法」とよばれる倫理の根本命題が示される。「汝自身の人格にある人間性、およびあらゆる他者の人格にある人間性を、つねに同時に目的として使用し、けっして単に手段として使用しないように行使せよ」。難しいが、分かりやすく言えば「自己をも他者をも手段として遇してはならない」ということだ。これを政治に適用するのはなかなか難しい。政治においては、人が数量として、また手段として扱われることが避けられない。
だが、現代社会のような複雑な社会関係の中に個々人が織り込まれて生きていくような社会では、政治と倫理とが複雑にからんでいて切り離せない。差別は政治的な力関係を背後にもっていることが多いが、日々の個人的な関係の中に現出してくる。個人的な関係において政治を意識しながら倫理的であろうとする経験をもつことが少なくない。そもそも「公共哲学」というような領域に多くの人びとが関心をもつのは、一つには政治と倫理が密接にからんでいて、人びとが日々、その関係について問われているという事態があるからだろう。
「戦争と平和」というような論題も政治の問題であるとともに倫理の問題だということは世界中の多くの人びとが感じ取っていることだ。マハトマ・ガンジーやキング牧師の「非暴力的抵抗」のことを思い出してもいいし、ジョン・レノンの「イマジン」を思いだしてもよい。そして、哲学者としてこの問題に取り組み、グローバル化が進む現代の政治思想にも大きな影響を及ぼしているのがカントだ。カントの『永遠平和のために』は、グローバルな経済権力が地球上のあらゆる地域の人びとに巨大な影響を及ぼすが、それを統御する国際政治秩序があやしいものにとどまっている、現代世界の政治にとって示唆するところが大きい書物だ(ジェームズ・ボーマン、マティアス・ルッツ-バッハマン編『カントと永遠平和――世界市民という理念について』未来社、2006年、参照)。
民主主義社会(カントは共和的という)は倫理的な理念を土台としている。これはカントが「永遠平和のための第一確定条項」にあげることだ。
第一に、社会の成員が(人間として)自由であるという原理、第二に、すべての成員が唯一で共同の立法に(臣民として)従属することの諸原則、第三に、すべての成員が(国民として)平等であるという法則、この三つに基づいて設立された体制――これは根源的な契約の理念から生ずる唯一の体制であり、この理念に民族の合法的なすべての立法が基づいていなければならないのであるが、こうした体制が共和的である。(28-29ページ)
 「自由」「平等」「法の支配」というこれらの規範は、自由な倫理性を備えた市民(個人)という倫理的な人間理解に基礎づけられているとカントは捉える。「自由」「平等」「法への従属」という原理は民主主義社会の基本的な倫理性にかかわると見なされている。そこで次のような説明が加えられている。
これらの権利は人間に生得的で、人間に必然的に属し、他に譲渡できないのであるが、これらの権利の妥当性は、人間がいっそう高次の存在者(このような存在者が考えられる場合は)に対してすら法的な関係にあるという原理によって、確証され、高められる。それは人間が、これと同一の諸原則によって、自分が超感性的な世界の市民でもある、と考えるからである。(30ページ)
 「他者を傷つけてはいけない」という倫理命題は国家ごとに法的に規定されているが、これは倫理的な義務以前の性向を基礎にもっている。人間は自然状態のなかでも友好的関係を作ってきた。とりあえず利己的な動機を基調とした人間の自然的成功からも平和な関係を作ろうとする意志は現れてくる。他の箇所でカントはそれを人間の「非社交的社交性」とよんでいる(宇都宮芳明『カントの啓蒙精神――人類の啓蒙と永遠平和にむけて』岩波書店、2006年、214ページ)
だが、そのような自然の性向の中で、人を利己的な動機を超えたかに見えるものに人を鼓舞し、喜んでいのちを投げ出して戦争に向かわせることにもなる。 一方、共和制は法に従属することで暴力を避ける市民的な秩序に向かわせる。これは倫理以前の「自然」による傾向からも説明できる。とはいえ、それを国際的な秩序にまで広げることはできない。――ここでカントは現実主義的な人類政治史の記述を行おうとしているようにも見える。とはいえ、その背後には人類の啓蒙、すなわち倫理的成熟への意志が働いているとの信念があることは陰に陽に示されている。
民主主義体制(共和制)は人類の倫理的な成熟(啓蒙)への意志を具現しているが、それは民族や宗教を基盤とした国家の枠に限定されている。倫理に基づく政治がありうるとしたら、国境を超えた国際関係や世界市民社会の次元でのそのあり方も考えられなくてはならない。だが、カントは世界共和国を提起することはしない。国家間の連合を提起する。そしてそれは、永遠平和をめざすものに国際法を転換させた「平和連合」という形をとるだろう。これは平和条約とは異なる。平和条約は再び戦争が行われることを排除していないから、実質的には休戦のようなものである。
しかしそれにもかかわらず、理性は道徳的に立法する最高権力の座から、係争解決の手続きとしての戦争を断乎として処罰し、これに対して平和の状態を直接の義務とするが、それでもこの状態は、民族間の契約がなければ、樹立されることも、また保障されることもできないのである。――以上に述べた諸理由から、平和連合(foedus padificum)とでも名づけることができる特殊な連合が存在しなければならないが、これは平和条約(pactum pacis)とは別で、両者の区別は、後者がたんに一つの戦争の終結をめざすのに対して、前者はすべての戦争が永遠に終結するのをめざすことにある、と言えよう。(42-43ページ)
 これは共和国のように法への従属を義務づけるものではないが、諸国間の自由の維持・保障にかかわるものだ。だが、それが諸国間に広がっていくことは期待できる。また、自由な市民の契約を前提とする共和国が永遠平和を望まないということは理にかなったことではない。また、外国人同士の相互訪問を保障するような、限定された機能をもつ世界市民法は、永遠平和を支える働きをなしうるだろう。
このようにカントは倫理的な理念を強く押し出すのではなく、国家の秩序を基礎とする政治の限界の中で可能な限り倫理的な要素を具体化していくという形で「永遠平和」を論じている。そして、そこへ近づいていくだけの具体的な方策の提言も行っている。その中には「国家の対外紛争にかんしては、いかなる国債も発行されてはならない」というような、当時の国際関係で生じていた問題が分からないと理解しにくいような論点も含まれている。また、「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない」というものもある。これはアメリカのイラク攻撃やシリア攻撃の問題に見られるように、現代でもつねに争点となるところだ。
現実性は薄いかもしれないが考えてみるべき論点に、「常備軍は、時とともに全廃されなければならない」というものもある。これは常備軍があること自身が戦争を引き起こす原因となるというのが最初の論点だが、次の論点が付け加えられている。
そのうえ、人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具としてほかのものの(国家の)手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう。(17ページ)
 しかしこれは武装の可能性をすべて排除しているものではない。「国民が自発的に一定期間にわたって武器使用を練習し、自分や祖国を外からの攻撃に対して防備することは、これとはまったく別の事柄である」(同上)。国際関係において敵対が生じる可能性を考慮しているわけだが、それでも「永遠平和」に向けた姿勢を可能な限り、形にしていこうとするものだ。
「付録」として「政治と道徳の一致」「不一致」についての二つの小節が置かれている。政治は政治の領域の論理に従うべきだが、そこに道徳(倫理)が関与していることを忘れるべきではない。他方、道徳を掲げる政治は危うい。法にのっとって政治は行われるべきだが、法は道徳に根差したものだ。ところが、道徳を掲げてその限界を超えてしまうことが起こりやすい。だから「道徳的な政治家」は歓迎すべきだが、「政治的な道徳家」は望ましくない。後者は「道徳を政治家の利益に役立つように焼直す道徳家」(80ページ)ということになる。
政治は、「蛇のように怜悧であれ」と言う。道徳は、(それを制限する条件として)「そして鳩のように正直に」と付け加える。この二つが一つの命令のうちで両立することができないなら、政治と道徳の間には実際に争いがあることになろう。しかしこの二つがどうしても合一しなければならないとすると、対立という考えは不合理であり、この争いはいかにして調停されるべきかという問いも、決して課題として提出されたりはしないであろう。なるほど、正直は最良の政治であるという命題は、実践が(悲しいことに!)たびたびそれと矛盾するような理論を含んでいる。だが正直はあらゆる政治にまさるという、同じように理論的な命題は、あらゆる反論をまったく寄せつけないばかりか、実に政治にとって不可欠の条件をなしているのである。(77ページ)
 しかし、政治における倫理・道徳を擁護するカントは、道徳を掲げる政治が専横に傾くことを強く意識している。自然に基礎を置いた人間のあり方や法にのっとった政治を尊び、理念に頼りすぎることがないような現実的な対応を重んじる姿勢にそれがよく表れている。そこには「人間の本性にそなわる邪悪さ」(40ページ)の認識もある。だが、争い合う人間が争い合うことを通して秩序を見出していくような「非社交的社交性」を見越したしぶとい眼差しもある。
したがって、専断的にふるまう(実行にかんして欠陥のある)道徳家たちが、国家政略に(対策を急いで採用したり、勧めたりして)さまざまな点で衝突することがいつも起こるであろう。けれども、かれらがこうして自然と衝突する際に獲得した経験が、かれらを次第によりよい軌道へと導くにちがいない。これに反して、道徳を説く政治家たちは、法に反した国家原理を擁護し、人間の本性は理性が命ずる理念にしたがって善をなすことができないという口実の下に、力の及ぶかぎり、改善を不可能なものとし、法の侵害を永久化するのである。(83ページ)
 カントの「永遠平和」構想はけっしてユートピア主義的ではない。平和主義の理念が先走るものでもない。現実的な政治に即して、その支えとなるべき理念的なものを照らし出そうとするものだ。そのような知や思考のあり方としての「哲学」をカントは控えめに示しているが、そのような広い意味での「哲学」は、今日ますます必要とされているものではないだろうか。


 

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