倫理良書レビュー 2013年10月 島薗教授おすすめの図書



 キケロー 著 (中務哲郎 訳)
 『老年について』 岩波文庫 2004年刊(原著、前45年)


 キケロー(前106-43)は古代ローマの歴史に名を遺す政治家だが、それ以上に西洋の学芸史上、重い仕事を遺した学者として知られ、その歴史的意義を論ずるのは容易なことでない。しかし、老いをいかに生きるかという論は理解しやすく今も新鮮なので、ここで取り上げる。2千年前のこういう本を読むと、人間は変わらないとつくづく実感できる。
 キケロー(Marcus Tullius Cicero)は若くして弁護士として名を知られるようになり、早くも前66年、法務官に、そして前63年には執政官(コンスル)に選ばれた。この時、落選したカティリーナが国家転覆の陰謀を企てたのをあばき、この政敵を倒して名をなしたが、以後、政争に翻弄され続ける。ポンペイウス、ブルートゥス、カエサル、アントニウス、オクタウィアヌスらに近づいたり敵対したり、困難な政治生活が続く。晩年、地位を失い、しばらく隠遁の時期を過ごす。この時期に主要な著作をまとめていった。
 主要な著作には『アカデミカ』、『スキピオの夢(国家について)』、『法律について』、『義務について』、『善と悪の究極について』、『トゥスクルム論議』などがある。多作の時期を過ごして間もなく、アントニウスの放った刺客により殺害される。前43年のことで、63年の生涯だった。晩年、政治的に不運だったキケローだが、家族という点でも妻との離別、娘の死に会うなど、幸せとは言えなかった。政治に遠ざかって隠遁し、苦渋に満ちた老年期に主要な著作が著されたが、『老年について』もその時期のものだ。
 他の著作と同様、対話形式で書かれている。執政官として、軍人として、雄弁家として知られたマルキウス・ポルキウス・カトー(前234-149)がスキーピオー(小スキーピオー)とラエリウスに語りかけるというものだ。出だしは、スキーピオーの賛辞と問いかけだ。
スキーピオー マルクス・カトー様、ここにいるガーウイウス・ラエリウスもわたくしも、何事につけ人に秀れた完璧なあなたのお知恵と、とりわけ、あなたが老年を少しも国しておられないように感じられることに対して、日頃感嘆すること頻りなのです。大抵の老人にとっては、老年は厭わしく、エトナの火山よりも重い荷を背負っている、とこぼさせるほどでありますのに(12ページ)。
 カトーの応答は次のようなものだ。
スキーピオーとラエリウスよ、難しくも何ともないことを、感心してくれているようだな。幸せな善き人生を送るための手だてを何ひとつ持たぬ者にとっては、一生はどこを取っても重いが、自分で自分の中から善きものを残らず探し出す人には、自然の掟がもたらすのは、一つとして災いと見えるわけがない。何よりも老年こそ、そういった種類のものなのだ。人は皆、老齢に達することを望むくせに、それが手に入るや非を鳴らす。愚か者の常なき心、理不尽さはかくも甚だしい。……自然を至高の導き手として、神の如くに従い服しているという点で、わしには知恵があるのだ(12-13ページ)。
 続いてカトーは死ということにもふれていく。
……しかしながら、何らかの終わりが必ずやなければならない。ちょうど木の葉や大地の稔りが、時を経た成熟ののちに、萎れたりぽとりと落ちたりするように。賢者はそれを従容と耐えなければならない(14ページ)。
 「自然に従う」というのでは、具体性がないということだろう、ラエリウスが「そうではありますが……私たちも老人になっていくでしょうし、それを望んでもいるものですから、いかなる方策をもってすれば老いの道行きを最も易く耐えることができるのか、それをあなたの口からずっと早くにお教えいただければ、これに勝る喜びはないでしょう」(同前)。察するにキケローは自らに言い聞かすように、老いと死を受け入れるためのこの対話編を書いたのだろう。
 キケローはカトーに「老年が惨めなものではない」ということを説き聞かせるという役割を与えている。人々は「老年が惨めである」という理由が4つあると考えられている。「第一に、老年は公の活動から遠ざけるから。第二に、老年は肉体を弱くするから。第三に、老年はほとんど全ての快楽を奪い去るから。第四に、老年は死から遠く離れていないから」(22ページ)。これら4つの「老年の弱点」について、一つ一つ「そうではない」と否定していくというのが論の運びだ。
 まず第1点――「公の活動」から離れるというが、老人もたくさんできることはあるとキケロー=カトーは言う。老人には大きな役割がある。体力や速度・機敏さは衰えても思慮・権威・見識はむしろ高まる。キケロー=カトーはまず、政治的・知的リーダーでもあったような人を念頭に置いた論を示す。老人こそ持っている智慧が若者には欠けていると。「スパルタにおいても最も名誉ある公職に就く人々は、事実そのままに元老(ゲロンテス)を呼ばれる。もしお前たちが外国の例を読むなり聞くなりしたいなら、いとも強大な国が若者のために揺るがされ、老人の手で支えられ建て直されたのを見出すであろう」(26ページ)。
 だが、続いて農民でもそうだという。「わしの親しい隣人だが、彼らがいなければ、種蒔きにしろ、作物の取り入れにしろ、貯蔵にしろ、大切な農作業は何ひとつなされないのだ」(29ページ)。そしてそれは自分のためにしているのではない。「この人たちは、自分とはまったく関係のないことが分かっていることにせっせと励んでいるのである」。ある劇作家の言葉にも「次の世代に役立つようにと木を植える」とある。「誰のために植えるのか」と尋ねられたら、農夫はこう答えるだろう。「不死なる神のために。神々は、私がこれを先祖から受け継ぐのみならず、後の世に送り渡すようにとも望まれた」と(29ページ)。ここでキケロー=カトーが述べているのは、功績あるキケロー=カトーのような人物がそれを誇りにし、若い世代を導くというのとは異なる意識のあり方だ。
 第2点――老人は体力が衰えるというが、そんなことを嘆く必要はない。「今、青年の体力が欲しいなどと思わないのは、ちょうど、若い時に牛や象の力が欲しいと思わなかったのと同じだ。在るものを使う、そして何をするにしても体力に応じて行うのがよいのだ」(32ページ)。ここには「自然に従う」という考えがある。東アジア的な伝統になじんだ頭には理解しやすい教えだ。
人生の行程は定まっている。自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれの時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気、早安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っているのだ(37ページ)。
 とはいえ、体力が弱るのに任せてよいというわけではない。「老年には立ち向かわねばならぬ。その欠点はたゆまず補わねばならぬ。病に対する如く老いと戦わねばならぬ」(38ページ)。このように前に述べたことと一見あい反するような論点を付け加えて行くのがキケロー=カトーの論の運び方だ。次の一節などは、先の「自然に任せる」という論とは矛盾するようにも思える。
われとわが身を守り、己の権利を保ち、誰にも隷属せず、息を引きとる瞬間まで一族を統べ治めてこそ、老年は尊敬に値する。わしなどはどこか老人ぽいところのある青年が好きだから、同様にどこか青年ぽいところのある老人を良しとするのだ。それを理想とする者は、よし肉体は老いるとも心は決して老いることはあるまい(40ページ)。
 心は老いないようにする。そのために知力を使うようにする。「記憶力の訓練のためにピュータゴラース派のやり方にならって、昼間話したり聞いたり行ったりしたことを、夕べに思い出したりもしているぞ、これは知力の鍛錬であり精神の錬磨なのである」(41ページ)。これは老人が従うにはなかなか厳しい道のようだが、若者に語っているという設定を割り引いて受け取るべきだろうか。生への執着をいく分、肯定している考え方だ。
 第3点――老年には快楽がないというが、これはむしろ喜ぶべきことだ。クイントゥス・マクシムスはかつてこう言った。「自然が人間に与える病毒で肉体の快楽以上に致命的なものはない。この快楽を手に入れるために、飽くことを知らぬ意馬心猿の欲望がかきたてられるからである。祖国への裏切り、国家の転覆、敵との密談、皆ここから生まれる」(42ページ)。つまり(肉体の)快楽は悪のもとだ。また、精神を遠ざけるものだ。そしてそれは理性で知恵でて名づけるのは困難だ。だから「してはならぬことが好きにならぬようにしてくれる老年というものに大いに感謝しなければならぬ」(44ページ)。
さて、快楽について何のためにこんなに多くのことを語ったのか。それは、快楽をそれほど欲しがらないというのは、老年への避難でないばかりか、最高の褒め言葉であるからだ。老年は宴会や山盛りの食卓や盃責めとは無縁だが、だからこそ酩酊や消化不良や不眠とも無縁なのだ(46ページ)。
          だが、他方、節度ある楽しみというのも老年にふさわしいものだ。「わしには講仲間がいた」とキケロー=カトーは言う。神祭りの仲間が宴ももつ。そこに熱気が伴うが、「年が進むにつれて、万事が日に日に穏やかになっていくのだ。わしはまたこういった共演の喜びを計るに際しては、肉体的な快楽より友との交わりや会話を基準とした」(47ページ)。これをローマ人は「コンウィウィウム(生を共にする)」と名づけた。現代の英語のconviviality(宴会気分)に連なるが、深い意味を込めることができる言葉だ。
 だが、一人でいても老人は穏やかな喜びを楽しめる。「心が自足している」「心が自分自身と共に生きる」というあり方だ。研究や学問にもそれがあるし、創造活度にもそれがある。また、老いた農夫が大地とともにあるあり方もそうだ。キケロー=カトーは葡萄つくりの例をあげ、その「楽しみには飽きるということがない」と言う(52ページ)。
わしに言わすれば、これほど幸福な老年はありえぬのではなかろうか。全人類の健康に資するという意義ある務めを果たしているためばかりでなく、上に述べた楽しみの面からも、また、人々の食料はもとより神々の崇拝にも関わるあらゆるものを――これを求める人がいる以上、っこらで快楽にも花を持たせておこうと思って言うのだが――あり余るほど豊かに備えているという面からもな。勤勉篤実な家長にあっては、葡萄酒倉もオリーブ油の倉も食糧倉も常に満ち、家中が賑わい、豚、仔山羊、仔羊、鶏、ミルク、チーズ、蜂蜜が溢れているものなのだ。それに、農夫ら自身が庭のことを「第二の豚の切り身」と呼んでいる。鳥撃ちや狩といった余暇の活動も、以上のことにさらに味わいを添えるのである(56ページ)。
 これは快楽や身体的喜びの肯定ではないだろうか。肉体の快楽を求めないところが老年のよいところだと言われていたが、今度は、でも老年にも豊かな快楽はあるといい、饒舌にそれを述べている。その叙述は祝祭的、カーニバル的と言ってもよいだろう。快楽追及の限界を説いてはいるが、宗教につきものの禁欲主義とは異なる立場だ。だが、結局、老年には快楽以上のものがあるとキケロー=カトーは言う。それは若い時に努力したことによって得られる「権威」だ。「挨拶されること、探し求められること、道を譲られること、起立してもらうこと」など。「したがってどんな肉体的快楽が権威という褒美に比べられようか。その褒美を見事に使い終えた人こそ、人生という芝居を演じきり、大根役者のように終幕でしくじることのなかった人だと、私には思えるのだ」(62ページ)。実績ある仕事をして世の称賛を得るような人がモデルということになる。共感できないと感じる人も多いだろう。
 第4点――死の接近は老年を惨めにするのか。答えはこうなる――「かくも長い人生の間に死を軽んじるべきことを悟らなかったとすれば、ああ、何と哀れな老人よ。死というものは、もし魂をすっかり消滅させるものならば無視してよいし、魂が永遠にあり続ける所へと導いてくれるものならば、待ち望みさえすべきだ」(63ページ)。
 そもそも死は老年にも青年にも訪れる。「死があらゆる年代に共通のものであることを、わしは最愛の息子において、そしてお前は、スキーピオーよ、位階を極めることを期待された弟たちにおいて、思い知ったのだ」(64ページ)。悲しみの経験を踏まえた言葉だ。だが、生きていることは良い、長生きをしたことは良いと述べていく。青年の方がまだ長い人生があるというが、「こちらは既に長く生きたのである」(65ページ)。善きことの豊穣なる思い出をもち、成熟して死んでいくほど自然なことはない。「自然に従って起こることは全て善きことの中に数えられる」(同前)。
果物でも、未熟だと力づくで木から捥ぎ離されるが、よく熟れていれば自ら落ちるように、命もまた、青年からは力づくで奪われ、老人からは成熟の結果として取り去られるのだ。この成熟ということこそわしにはこよなく喜ばしいので、死に近づけば近づくほど、いわば陸地を認めて、長い航海の果てについに港に入ろうとするかのように思われるのだ(66-67ページ)。
 そしてやるべきことをすでに終えた老年の方が毅然と死ぬことができるものだ。青年期にも中年期にもそれぞれやるべき仕事があり、そして「老年にはいわば最後の仕事がある。それ故、前の各年代の仕事が消えていくように、老年の仕事も消えてなくなるのだ。そしてそうなった時には、人生に満ち足りて死の時が熟するのである」(70ページ)。
 最後にキケロー=カトーは、「わし自身死というものをどう考えているか」(70ページ)を述べていく。まず、自分は魂の不死を信じているという。ここはもっぱらプラトンの説に従って論が展開する。そしてそのことが明示され、推論によるとともに「最も秀れた哲学者たちの隠れもなき権威」によってそう信じるのだという。この信念は字義通りのものと受け取ってよいが、強い主張ではない。
 他方、キケロー=カトーは異論があることを知っていて、いくらかの疑いを保持してもいる。死によって魂は肉体のくびきを脱し、神性が高まる。「だから、わしの言うとおりだと思うなら、わしを神の如くに敬うのだぞ。しかしもし、魂が肉体と同時に滅びゆくものだとしても、お前たちはこの麗しい全世界を守り治める神々を崇めつつ、わしの思い出を恭しく厳かに守り続けて欲しいのだ」(74ページ)。
 魂の永続への疑いは本書の最後の一節にも記されている。そこにはユーモアも含まれていて、ほっとする。
また、取るに足りない哲学者どもが考えるように、死んだら何も感じなくなるのなら、死んだ哲学者がわしのこの間違いを嘲笑せぬかと恐れることもないわけだ。しかし仮りに、われわれは不死なるものになれそうにないとしても、やはり人間はそれぞれふさわしい時に消え去るのが望ましい。自然は他のあらゆるものと同様、生きるということについても限度を持っているのだから。因みに、人生における老年は芝居における終幕のようなもの。そこでへとへとになることは避けなければならない、とりわけ十分に味わい尽くした後ではな(78ページ)。
 「以上がわしが老年について語りたかったことである」(同前)。キケローに従えば、老年には老年にふさわしい良き生があり、楽しく過ごしながら死に備えていくことができる。死後の生を信じることはその前提の一部であるとしても、主要な条件ではない。確かに老年の弱さはあるが、その裏面としての優越性を自覚すればよいということになる。
 現代の老いの実情から見れば、これはよほど恵まれた人の話ということになるだろう。功成り名遂げた人、また物質的な豊かさを確保している人でないととてもこの境地にはなれない。それはそうだが、それでも悲境苦境にあった晩年のキケローの知恵に学ぶことはできるのではないか。多くの人は相対的な強さと弱さの中にいて、弱さを意識し死を予感して生きる経験をもっている。この世の共同性を大事にし世に尽くそうとしながら、自然に従い、いくらかは引きこもり、可能な限りのゆとりを楽しみつつ生を離れる心構えを持つ。このスタンスは、信仰者、遁世者でなくてもある種の懐かしさを感じるものだろう。



 

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