倫理良書レビュー 2013年11月 島薗教授おすすめの図書



 堀田善衛 著
 『方丈記私記』 ちくま文庫 1988年刊(初刊、1971年)


 2011年3月11日の災害の経験は、多くの日本人に鴨長明(1155-1216)の『方丈記』を思いおこさせた。「無常」ということをつくづく感じる日々だった。私自身もそう感じたし、そう述べる声を何度か聞いた。『方丈記』は無常ということについて私たちが受け継いできた伝統を如実に思い起こさせてくれる書物だった。
 無常という語が切実に思われたその時期もやや遠ざかろうとしている。地震や津波の記憶も少し薄れ、人々は災害の苦難や悲しみを口にすることも少なくなってきた。だが、『方丈記』にはこんな記述もある。


……すなはちは、人々みなあぢきなき事をのべて、いさゝか心の濁りもうすらぐと見えしなど、月日かさなり、年経にしのちは、ことばにかけて言ひ出づる人だになし。
 これは1185年の大地震の後の人心について述べたものだ。地震年表を見ると、この地震の推定マグニチュードは7.4とある。死者10万5千人の関東大震災は7.9だが、年表には「近江・山城・大和地方。社寺・家屋の倒潰破壊多く死者多数」と記されている。度重なる余震は2年先の3月14日まで続いた。その間に源頼朝方の兵が都に入っている。貴族政治の崩壊に怯える平安京の住民にとって、まことに恐ろしい災害だったに違いない。『方丈記』はそのことにはあまり触れず、地震被害の惨状は印象深く描き出している。だが、そんな大地震の鮮明な記憶さえも長くは続かない。そして、鴨長明はこう続ける。「すべて世中のありにくゝ、我が身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし」と。
 この一節を引く堀田善衛(1918-1998)による『方丈記私記』の読み方は以下のようなものだ(89-90頁)。「すなはちは」は「当座は」という意味で、「地震の当座は、どうにも便りがない、つまらぬ、いやになってしまうと言いあっている有様で、心の濁り、つまりは世俗についての欲念、執着なともいささかうすらいだかに見えたけれども云々ということになる……」。殊勝な人間性が書き留められているようだ。だが、その後の忘却の記述こそ注目すべきだと堀田は言う。
……ここのところをよくよく読み返していると、私には、「月日のかさなり、年経にしのちは」、けろりと忘れてしまう人間というもののしたたかさ加減についての認識が裏打ちとしてあるように思われて来る。実際に、人間はけろりと忘れてしまわぬ限りは生きて行けないのである。心の濁りはうすらぐはずもないが、記憶はうすらぎ、それを心の惢となるほどの経験と化しうる人は多くないであろう。さらには、長明自身にも当然かかるしたたかさはある筈であり、その人一倍のしたたかさと、またその自らのしたたかさと、またその自らのしたたかさについての自己認識が、老年に入っての遁世をもたらすものである、と私は思っている……
 このように書くとき、堀田は執筆時から25年前の1945年3月9、10日から18日にかけての自身の経験を思い起している。これは地震や津波の災害ではない、東京大空襲の記憶だ。1944年12月にも昭和東南海地震があった。地震、火災、辻風、飢饉等の災害について次々に述べていく『方丈記』だが、その背後には国家体制の崩壊が強く意識されていた。これが堀田の考察の前提だ。
3月10日朝、私とK君は洗足池から電車で目黒駅まで出て、そこから新橋汐留駅近くの、K君のお店まで歩いて行った。都電も何も通っていなかったからである。この方角から仰ぐ、東の方、下町一帯の上空には、大火余燼の煙と灰塵の、実に分厚い雲のようなものが一個所、あるいは数か所でもくもくと急上昇をする。目黒から歩いて芝園近辺まで来ると、K君の汐留のお店が果して残っているかどうか、その夜は店にとまられた父君が御無事かどうかが気になり、次第に歩足が早くなって行った。と同時に、焼け出されて着の身着のまま、焼けこげて生身の露出した襤褸をまとった人々、あるいはまた最小限の荷物をもって逃げ出して来た人々とすれちがいはじめた。そういう人々、罹災者たちのほとんどが鼻の傍に黒い砂、あるいは灰をため、眼のふちはもっと青黒く、灰や埃で目じりや口のまわり、額の皴などもあらわに刻み込まれ、一様に、すべての人々が涙を流してよろよろと歩いていた。泣いているのではない。人煙で眼をやかれ、痛めつけられたのである。(34頁)
 2011年3.11後の被災地のことを思い出さずにはいられない。どうしてこんな事態に至ったのか。そう思うとともに何もできない絶望感にも襲われる。そして苦難の中にある人々の気持ちに何とか近づきたいとも思う。
 だが、ここで堀田はこの苦難とともにあるという事態が、ある種の社会的、倫理的な自覚につながる可能性をもったことを示唆する。婉曲な表現だが、これまでの社会が形作ってきた構築物が破壊されることによって、自由な空間が生じ、一人一人が自らの足で立つという意志が芽生えるかもしれないのだ。以下に引く叙述では、「平べったく」と「立体的」という言葉にそうした思想的な意味が込められている。
ところで汐留のK君のお店は、ほとんど奇蹟的に、まわり全部が焼け落ちてトタンと小さく盛り上った壁土の波の上に、その一面だけが立体的に立っていた。それを見かけたとき、私たちは船酔いをでもしたかのような、心理的に酔って倒れそうな妙な気分になったものである。吐き気を催したような記憶さえがある。ここに、立体的、という妙なことばを使ったのは、焼け落ちて平べったくなってしまったところに、内部の焼け落ちたビルと、ぽつりぽつりと土蔵と金庫が立ちのこっているのは、それはいわば孤立した感じのものであって、一画の家々がかたまって残っているのは、妙に立体的なものが立ち残っている、という感を私に与えたからである。
その、へんに立体的に立った家々の一かたまりが明らかに目に入り、ああ残っている、と確認した瞬間に、私は、よかった、と思うと同時に、なんと莫迦げたこともあるものだ、と思ったことを記憶している。(35頁)
 この瞬間に感じたことを、堀田は「この25年の私自身の思想的な営為のおそらくはすべてがそこに干渉して来る」ものだったと言う。
しかしとにかく後者の、なんと莫迦げた云々に関して、それは一つの啓示のようにして私にやって来たものがあった。というのは、満州事変以来のすべての戦争営為の最高責任者としての天皇をはじめとして、その住居、事務所、機関などの全部が焼け落ちて、天皇をはじめとして全部が罹災者、つまりは難民になってしまえば、それで終りだ、終りだ、ということは、つまりはもう一つの始りだ、ということだ、ということが、なんと莫迦げた云々の内容として、一つの啓示のようにして私にやって来たのであった。上から下まで、軍から徴用工まで、天皇から二等兵まで全部が全部、難民になってしまえば。……(35-36頁)
 この感想に照応するような『方丈記』の叙述が引かれている。「人の営み、皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家をつくるとて、宝を費し、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る」。これは「無常」という語の悟りに関わる一面だ。だからそこには「さわやかな期待感を抱かせるもの」があると堀田は言う。「辻風は常に吹くものなれど、かゝる事やある、たゞ事にあらず、さるべきもののさとしか、などぞ疑ひ侍りし」。何か根本的な「さとし」のしるしではないかと思われるということだろう。畏怖の念とともに、新たにしっかり生き直そうとの思いが生じるということか。他の箇所には「世の乱るゝ瑞相」というやや不可解な表現もある。鴨長明が出家遁世して方丈の庵に住むに至ったのは、そうした「さとし」に則ったものだろう。1945年の若き堀田にとっては、それは社会が新たに組み立て直されるという「期待」にもつながったようだ。
 だが、ほどなくこうした「平べったい夢想、あるいは平べったい期待」が「これまたいかに現実離れをした、甘いものにすぎなかったかということを現実によって思い知らされる」ときが来る(54頁)。一週間後の3月18日のことだったという。
 その日、堀田は洗足から知り合いの女性のいる深川へと赴いた。そのあたりはほとんど助からなかったと聞いていたのだが、たとえそうであるとしてもその現場に行って「訣れが告げたかった」からだ。ところが、その途中、永代橋のあたりで憲兵や警官や文官らの一群が現れる。そして天皇が車から降りて来た。「私は、瞬間に身が凍るような思いがした」。そして、人びとが土下座をして涙を流しながら天皇に詫びることばを呟き始めた。
私は本当におどろいてしまった。私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちら眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。こいつらのぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる!そんな法外なことがどこにある!こういう奇怪な逆転がどうしていったい起り得るのか!(60-61頁)
 これではどうにもならない。新たに希望をもって生き直すどころではない。むしろ「無常」と諦めるしかないのか。この諦めとともに身を引く。こうした態度について、堀田は「無常観の政治化」という言葉で要約してもいる(66頁)。狭い宮廷社会で政治的な敗北を重ね、遁世した鴨長明もその伝統に関わりが深い人だった。「羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ」、「世にしたがへば、身くるし。したがわねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなる技をしてか、しばしもこの身を宿し、ためゆらも心を休むべき」といった一節を堀田は引いている(67頁)。だが、鴨長明は一味違うものを持っていた。それが堀田の理解だ。
 逃避の道は藤原定家に代表される当時の『新古今和歌集』の歌人たちに見られる。ひたすら、本歌取りに明け暮れ、現実から遠い言葉の世界に閉じこもるということだ。長明はそうした世界もいちおうは経験したが、そこからはみ出ていく。また、仏道にしっかりいそしみ、向こう側の世界をがっちり押さえて自足するという道を選んだようだ。だが、そこからもはみ出てしまう。
 「若、念仏ものうく、読経まめならぬ時には、みづから休み、身づからおこたる。さまたぐる人もなく、また恥づべき人もなし」。季節の自然に慰めを得、音楽芸能をひとり楽しんだりする。そう『方丈記』には記されている。堀田は「まるで居直りみたいなものである」と述べている(191-192頁)。また、長明は度々都を訪れる。そして鋭い観察眼で世の動きを見ている。遁世というが、実は俗世を見張る特権的地点を得たかのようでもある。出家遁世としても、悟りすまして仏道一筋を歩んだというようなものではなかった。
私は思うのだが、あの当時にあって、かくまでのウラミツラミ、居直り、ひらきなおり、ふれくされ、厭味を、これまた大ッピラに書いた人というものは、長明の他にはまったくいなかったのではなかろうか、と。少なくとも私は他に例を知らない。これがもし長明の「私」であるとすれば、そうしてそれは彼が自ら書いている通りに、それが60歳になっての彼の「私」なのであったが、もう一度繰り返すとして、これが彼においての「私」であったとすれば、無常とはいったい何であったか?好き放題の言いたい放題と言えぬこともないであろう。要するにおそろしく生ぐさいのである。出家しようが、山中に籠ろうが、生きた人間が生ぐさくない筈はないのである。
そうとすれば、この生ぐささがどこから、如何なる理由によってかくまでに、いわば率直に発揮されえたものであったろうか。
それは、世を捨てたからだ、というのが私の答えであり、世を捨てたればこそ仏道に対してさえも文句をつけることが出来たのである。仏道もまた「世」であったのである。そういう異様な弁証法がこの「私」の背後にあると思われる。(207頁)
 堀田が問おうとしているのは、世の何かにもたれることなく、一人ある「私」が鴨長明においてどのように成り立っているかということだ。方丈の庵に引きこもることによって、長明はその場を得た。そして、「生ぐさい」この世のことどもになお旺盛な関心をもち、それを記し書き物を遺していくことによってだった。
 現代に生きる私たちも、実際のどこかの場所とは別に、そのような精神の方丈(私の勝手な造語)とも言うべき場所をもたねばならないのではないか。つくづく「無常」を思うことの中には、そのような課題も含まれている。それは「無常観の政治化」に抗う「私」を見失わないために、不可欠の所作ではないか。堀田が述べたいことを少し平板にし過ぎていると思うが、私なりに分かりやすく述べたつもりだ。



 

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