倫理良書レビュー 2013年12月 島薗教授おすすめの図書



 オルテガ 著(寺田和夫訳)
 『大衆の反逆』 中央公論新社 2002年刊(原著、1930年)


 ホセ・オルテガ・イ・ガセト(1883-1955)はスペインの哲学者で、この書物は今もよく読まれており、倫理に関わる洞察に富む。ところが、部分部分は読みやすいように思えるのだが、全体としては読みにくい本だ。英語訳タイトルはThe Revolt of the Massesとなる。では、「大衆masses」とはどのような人々を指すのか。
 試みにウィキペディアを見ると以下のようなまとめがある。「大衆を批判し、貴族・エリートを擁護した。彼の定義によれば、大衆とは、『ただ欲求のみを持っており、自分には権利だけあると考え、義務を持っているなどとは考えもしない』、つまり、『みずからに義務を課す高貴さを欠いた人間である』という」。「そうか、『貴族・エリート』と『大衆』が異なる種類の人たちということだな」と分かった気になりそうだ。確かにこのように読める箇所がある。

さて、社会にはきわめて多様な作用、活動、機能が存在している。それらは、本来の性質からして特別であり、したがって、同様に特別な天賦の才なしには、これらをうまく運営することはできない。たとえば、芸術的な、また贅沢な特性をもつある種の楽しみ、あるいは政府の機能、公的問題に関する政治的判断などがそれである。以前には、これらの特別な活動は、資質に恵まれた――少なくともそううぬぼれている――少数の人々によって行われたものだ。大衆は、そういうことにあえて割り込もうなどという大それた気を起こさなかった。(中略)
すべての事実は、大衆が社会の最前列に進みでて、以前には少数者だけのものであった楽しみの場所を占拠し、その用具を使い、かれらの楽しみを享受する決意をかためたことを示している。たとえば、それらの場所がもともと群集のためを思ってつくられたものでないのは明らかである。(中略)大衆が大衆であることをやめぬまま、少数派にとって代わりつつある。(11頁)
 昔は少数者が静かに楽しんだ洗練された芸術の場に、あまり鑑賞力のない人々がどやどや入ってきて雑音を立てている。すぐれた頭脳をもつ科学者のみが理解できるはずの事柄に、よく分かってもいない借り物知識をひけらかす大衆が割り込んできて大声でがなり立てている。こんなイメージが浮かんでくるかもしれない
 ここで問うてみるべきことの1つは、オルテガは「大衆」と「貴族・エリート」とは、どこにどのように存在していると見ていたのかということだろう。そこでまず次のような箇所を見ておこう。
はじめにお断りしたように《大衆》ということばを、とくに労働者の意味で理解してはならない。それは社会の一階級をさすのではなく、今日の社会のあらゆる階級のなかに見られ、それゆえに、大衆の優越し支配しているわれらの時代を代表する人間の種類、あるいは存在のあり方を示している。これから、その証拠をたっぷりお目にかけるとしよう。 今日、社会的力を行使している者はだれか。この時代にみずからの精神構造を押しつけているのはだれか。いうまでもなくブルジョアジーである。では、このブルジョアジーのなかで、もっともすぐれたグループ、つまり現代の貴族と考えられているのはだれか。疑いもなく専門職、つまり技師、医者、金融家、教師などである。この専門職の集団のなかで、最高の位置を占めてもっとも純粋な形でかれらを代表する者はだれか。もちろん科学者である。(中略)
ところが、その結果、現代の科学者は大衆的人間の原型だということになる。しかも、科学者が大衆的人間であるのは、偶然の結果ではなく、またひとりひとりの科学者の欠陥によるのでもなくて、科学――つまり、文明の基盤――自体がかれらを自動的に大衆的人間に変えてしまうからである。いわば、科学者を原始人に、現代の野蛮人に変えてしまうのである。(135頁)
 どうしてこのような事態に至るのか。ここでオルテガは科学者の「専門化」に言及する。「科学そのものは専門分化主義ではない。もしそんなことになったら、それだけで真の科学ではなくなってしまうだろう」。だが、科学者たちの仕事は専門分化せざるをえない。そのために科学者は「しだいに科学の他の部門との接触を失い、ヨーロッパの科学、文化、文明と名に値するただ一つのものである宇宙の総合的解釈から離れてきた点が、重大なのである」(136頁)。
 専門化は《百科全書》派が「教養人」とよばれた時代に始まった。だが、それを引き継ぐ19世紀になるとだいぶ専門化が進み、各科学者は総合的教養を失い始める。これが第2段階。そして1890年に第3の世代が覇権を握るが、そこで「われわれは歴史上、例のない新しいタイプの科学者に」で会う。「この人々は、思慮のある人間になるために知っていなければならぬことのうちで、特定の科学だけしか知らず、その科学のなかでも、自分が活発に研究している一握りの問題だけをよく知っている」。そして「自分が専門的に研究している狭い領域の外にあるものを知らないということを、一つの美点であると主張するほどになり、総合的知識に対する興味をディレッタンティズムと呼ぶようになった。」(137頁)
 だが、こういう狭い専門家こそが確かに科学を発展させていく。そのために「ひどく奇妙な人間の種族が創造される」。「むかしは、人間を、知者と無知の者、あるいはかなりの知者と、どちらかといえば無知である人に、単純に分けることができた。ところが、専門家は、この二つの範疇のどちらにも入れることができない」。「無知な知者」が多数生じるわけだが、「事は重大」だ。「というのは、この人は、自分の知らないあらゆる問題にたして、ひとりの無知な男としてではなく、自分の特殊な問題では知者である人間として、気どった行動をするであろう」からだ。
文明がかれを専門家にしたとき、かれみずからの限界のなかで満足させ、閉鎖的にしてしまった。しかし、自分がたのもしい価値ある人間だという内的感情それ自体が、自分の専門外のことまで支配したいという気を起こさせるであろう。(中略)
右のことは、根拠なしにいっているのではない。今日、政治、芸術、宗教、生と世界の一般問題について、《科学者》や、またそのあとに控えた医者、技師、金融家、教師などが、いかに愚かな考え方や判断や行動をしているかを、だれでも観察することができる。私が大衆的人間の特徴として繰り返しあげた、《人のいうことを聞かない》、高い権威に従わないという性格は、まさに部分的な資質をもったこれらの専門家たちにおいて、その頂点にまで達する。かれらは、今日の大衆による支配を象徴しており、また、大衆による支配の主要な担い手である。かれらの野蛮性こそ、ヨーロッパの退廃のもっとも直接な原因である。(140頁)
 この論は「大衆の反逆」の特殊な応用論なのではなく、典型的な、また核心的な事態の1つと見なされている。科学者という「エリート」こそが、「大衆」の代表なのだ。これは福島原発事故後の専門家のあり方を問う者にとって分かりやすい捉え方だ。これ以外にも、本書には3.11以後の状況でよく分かる倫理的警句とでも言うべきものが多い。
 文明が野蛮に転ずるということも典型的な事柄だ。19世紀はヨーロッパの文明を拡充した。だがそこで起こった「生の力の増大」が傲りや慢心を広げていった。そこで、「われわれの時代は、すべての過去の時代よりも豊かであるという奇妙なうぬぼれ」(46-47頁)が広がり、過去全体を軽んずるようになる。そして過去には求められていた卓越するための努力なしにそれが得られると感じるようになる。
 「大衆の反逆」はこのようなうぬぼれや傲りを特徴とする。かつての貴族は向上のための厳しい修行の過程を意識し、したがって未熟なものに厳しく、また熟練しえていないことをつねに意識しようとし謙虚でもあった。向上することは遠くを見ていることであり、遠い彼方に理想があり、そこへの道筋が信じられていることでもある。また、自分たちが負っている過去を大事にしており、歴史を尊んでもいる。だが、大衆の時代の人々は歴史を軽んずる。過去よりずっとよい段階にいると無邪気に思い込んでいるのだから当然かもしれない。
 オルテガは分かりやすいたとえで、「《慢心した坊ちゃん》の時代」と述べて、「大衆的人間の心理構造」について述べている。世襲貴族にたとえられている。貴族の子弟もそうなりがちなのだが、自分が引き継いだものを自分自身が努力して得たものであるかのように錯覚してしまうのだ。そこで、「大衆的人間は、生は容易である、ありあまるほど豊かであり、悲劇的な制限はないというふうに、心底から、生まれたときから感じており、したがって、各平均人は、自分のなかに支配と勝利の実感をいだいている」という。人間には何でもできるという楽観がアメリカを先導者とする20世紀の文明に底流にある。そういえば、原子力利用もまさにこうした楽観の中から起こってきた。原子力利用は《慢心した坊ちゃん》の科学技術と言ってよいかもしれない。
 「大衆的人間の心理構造」として次にあげられているのは閉鎖性だ。「そのこと(支配と勝利の実感をいだいているということ)から、あるがままの自分に確信をもち、自分の道徳的・知的資質はすぐれており、完全であると考えるようになる。この自己満足から、外部の権威にたいして自己を閉鎖してしまい、耳をかさず、自分の意見に疑いをもたず、他人を考慮に入れないようになる。たえずかれの内部にある支配感情に刺激されて、支配力を行使したがる。そこで、自分とその同類だけが世界に存在しているかのように行動することになる」(119頁)。
 これは「大衆」の定義にも関わることだ。本書は15章からなるが、すでに最初の第1章でオルテガはこう述べている。
つきつめていえば、一つの心理的実体としてなら、大衆を定義するのに、なにも人々が群れをなして出現するのを待つ必要はない。目のまえにいるただひとりの人間についても、かれが大衆であるか否かを知ることができる。大衆とは、みずからを、特別な理由によって――よいとも悪いとも――評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じかえっていい気持になる、そのような人々全部である。(8-9頁)
 「よいとも悪いとも評価しない」とあるが、オルテガは「自分と仲間(たとえば専門家仲間)の良さを信じ切って」と書くべきだったかもしれない。これは異なる考えをもつ他者とともに共同生活を営むという「文明」の本質に反するものだ。「手続き。規範、礼節、非直接的方法、正義、理性!これらはなんのために発明され、なんのためにこれほどめんどうなものが創造されたのだろうか。それらは結局、《文明》というただ一語につきる……」。これらすべては「ひとりひとりが他人を考慮に入れるという、根本的、前進的な願いを前提にしているのである。文明は何よりも共同生活への意志である。」(89頁)
 これは「自由」を尊ぶということだ。共産主義とファシズムが台頭する時代にオルテガはこう述べている。自由主義は「最高に寛大な制度である。なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、だからこそ、地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである。それは敵と、それどころから、弱い敵と共存する決意を宣言する。」これは大いに反自然的なことだ。だが、「こんな気持のやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。反対者の存在する国がしだいに減りつつあるという事実ほど、今日の横顔をはっきりと示しているものはない」(90-91頁)。
 「大衆的人間の心理構造」に戻ろう。うぬぼれと閉鎖性に続いて、暴力性が加わる。「慎重も熟慮も手続きも保留もなく、いわば、《直接行動》の制度によって、すべてのことに介入し、自分の凡庸な意見を押しつけようとする」こと。正常な未開人は宗教、タブー、社会的伝統、習慣に従う「従順さ」をもつが、大衆は「反逆する」未開人であり、オルテガは《野蛮人》とよぶ(119頁)。
 その《野蛮人》の特徴は当時、台頭しつつあった共産主義や無政府主義やファシズム等の政治運動やある種の芸術運動などに見ているようだ。「はじめてヨーロッパに、理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしないで、ひたすら自分の意見を押しつけるタイプの人間が現れた」という(86頁)。
 そこには確かな思想はない。「思想をもつとは、思想の根拠となる理由を保持していると信ずること」、「理解可能な真理の世界が存在すると信ずること」だ。そのような思想は他者の思想とつきあわせること、つまりは対話を行い深められるべきものだ。
思想をもつとは、思想の根拠となる理由を保持していると信ずることであり、したがって、理性が、すなわち理解可能な真理の世界が存在すると信ずることである。思想を生み出すこと、つまり意見をもつということは、そのような真理という権威に訴え、それに服従し、その法典と判決を受けいれることと同じであり、したがって、共存の最良の形式は、われわれの思想の根拠となる理由を議論する対話にあると信ずることと同じである(87頁)。
 規範と権威にのっとって討議するというやり方にかわって、理解しあわずに勝手に言い合っているという事態が生じている。「ヨーロッパの《新しい》事態は、《議論をやめる》ことである」(同上)。
 オルテガは「真理」と「自由」がどう関わっているのかについても「運命の真理」という語を用いて論じている。
自由主義の諸形態を攻撃する批判が正当であるとしても、そのかなたに自由主義の不変の真理があることは、だれでも《知っている》。その真理とは、理論的・科学的・知的真理ではなく、根本的に別な、これらすべてよりも決定的な真理――いわば運命の真理である。理論的真理はたんに議論の対象となるばかりでなく、その真理と意義と力は、それが議論されるという点に存する。(中略)しかし、運命――生としてそうあらねばならないか、そうあってはならないか、というもの――は議論されることはなく、われわれはそれを受けいれるか否かしかない。もし受けいれれば、われわれは本物であり、受けいれなければ、われわれはわれわれ自身を否定し、偽造することになる。運命はわれわれがしたいことのなかにはなく、むしろ、したくないことをしなければならぬというわれわれの自覚のなかに、その厳格な横顔をくっきりと現わすのである(127頁)。
 ここでオルテガが「運命」「運命の真理」と呼んでいるものが何であるのか、理解するのは容易ではない。関連した語に、「高貴さ」、「理想」、「道徳」、「義務」などがある。それらは精神の「貴族」によって尊ばれるものであり、社会の骨格を形作るはずのものだ。だが、20世紀の前半にそれがどのような形で思い描かれえたのか、本書からは捉えることができない。
 本書は政治的な保守主義に通じるものだと受け取る向きもあるようだが、どうだろうか。国家主義の危険にも注意を促し、新たなヨーロッパ国家の登場に期待しているのも興味深いところだ。だが、オルテガの主眼は政治的な主張ではなく、精神文化のあり方にあったのだろう。そして、オルテガが注目した20世紀前半の精神状況と21世紀初頭の現在の精神状況との間の重なり合いはかなり大きいのではないだろうか。



 

HOME | 財団概要 | 道徳教育 | 生涯学習 | 表現教育 | 国際交流 | 研究助成
© Copyright 2004 公益財団法人 上廣倫理財団 All Right Reserved.