倫理良書レビュー 2014年1月 島薗教授おすすめの図書



 ジャン=ピエール・デュピュイ 著
 『聖なるものの刻印-科学的合理性はなぜ盲目なのか?』
          西谷修也他訳 以文社 2014年刊(原著、2008年)


 現代世界における科学技術の制御について、深い洞察がなされている書物だ。それはまた現代世界の宗教性についての独自の理解と不可分でもある。著者は物理学から科学哲学、さらに公共哲学あるいは現代文明論とでもよぶべき領域に転じたユニークな学者・思想家だ。本書では、デュピュイのこうした知的遍歴を自ら振り返りながら、その全課程において「宗教」理解が鍵となっていることを示している。科学技術と宗教との関係を理解することが、現代における倫理を考える際の急所となりうることを示した書物とも言える。
 現代の科学技術を制御することはたいへん難しくなっている。科学技術の発展のおかげで人類は大量のエネルギー資源を使って環境を快適なものへと変えようとしてきたが、今や地球温暖化の破局的事態を予想しなくてはならなくなっている。たとえば、地上の平均気温が2度上昇すると恐るべき破局的事態が生じるかもしれない。
いま言った境界を超えると、気候システムはカオス状態に入り、それたいくつものキー変数にいわゆる「ティッピングポイント」(島薗注:「転移点」=システムに重大な変化が起こる閾値)を超えさせるということだ。この閾値が超えられると、それが今度は破滅的現象を引き起こし、この破局が深淵への失墜にも似た自動強化の力学を増幅させることになる。たとえば、大西洋の深海潮流が変化するかもしれず、それはヨーロッパの逆説的な寒冷化を引き起こすことになるだろう。南極大陸を覆っている永久凍土が溶け出すと、膨大な量のメタンガスが放出されることになるが、それはもっとも恐るべき温室効果ガスだ、等々。その閾値がどこにあるのかわれわれにはわからず、それがわかるのは、われわれがそれを超えてしまったときであり、そのときにはすでに手遅れだということになる。(39ページ)
 科学技術を制御できないために破局を避けることができない。原子力発電は地球温暖化による破局を救うために有用と考えられたが、破局的事態を生じさせてしまうことがますます明らかになっている。気候変動による食糧危機を避けるために有用という触れ込みで遺伝子改変作物が育成されているが、それがもたらす生態学的環境変化が何をもたらすのか予測できない。医学・生命科学の発展で、産み分けが進んだり長寿化が進んだりした場合、人類社会を襲う破局的事態も想像はできるが、予想はできない。2008年の原著刊行時点での最新科学技術による破局的な事態の予想は、ナノ・テクノロジーによるものだ。とりわけ「合成生物学」synthetic biologyは注目度の高い新科学技術領域だ。
ナノ・バイオテクノロジーとともに、人間は生物学的プロセスを引き継いで、生命の製造に参加している。だが、生命を製造――実際は創造――しようとする者は、その本質的能力を再生産することを目指さずにはいない。つまり今度は自分で根本的に新しいものを創造するということだ。この領域で影響力をもつケヴィン・ケリーはこう言った。「ひとつの技術の潜在力は、それが根っから「コントロールできない(out-of-controlness)」ということ、つまりまったく新しいものを生み出してわれわれを驚かせるその能力に比例している。われわれはそのことを理解するのにずいぶん時間をかけた。実際、ある技術を前にしてわれわれが不安を抱かなかったとしたら、それはその技術がそれほど革命的ではないからである」。「ナノの夢」は究極的には自然の内部に不可逆的で複雑なプロセスを起動させることだから、未来のエンジニアは怠慢や不適格のゆえに魔法使いの弟子なのではなく、意図的(デザインによって)にそうなのである。真のデザインとは今日、制御ではなくその反対物なのだ。(47-48ページ)
 デュピュイによれば、このような危機は「黙示録」的なものだ。危機は何かたいへん大切なことを暗黙の内に語っている。危機の彼方にある見えないものは魅惑するものでもある。それは何か聖なるもののように感じられるので、それに引き込まれて破局に進んでいくことが起こり得る。
 けれども福音書のイエスはそうならないための道を示していると論は展開する。黙示録という言葉を持ち出すとき、デュピュイはキリスト教を念頭に置いているのだ。「ひとりの弟子がイエスに神殿の壮麗さをよく見てくださいと言う」。イエスは答える。「この壮大な建造物を見るがよい。その石のひとつとして残らず、すべては破壊されるだろう」。弟子たちはあれこれ尋ねるがイエスはそれに応えない。つまり、「黙示録的興奮のなかに引きずり込まれるのを拒む。そして神殿についても、その破壊という出来事についても聖性を否定する。そんなことにはいささかも神聖な意義はないと」。デュピュイは福音書が示唆するこうした態度を、破局を避けるための合理的な方法と捉え返し、「賢明な破局論」と名づける。「賢明な破局論」はリスクや不確実性を組み込み、破局を不可避と想定しつつかろうじてそれを避けるような科学技術のあり方を示唆したものだが、本書では以下のように説明されている。
この讃嘆すべきテクストは黙示を神聖化しないために黙示録的な言語を使っている。それは黙示録を内側から転覆する策略である。わたしが「賢明な破局論」と呼ぶものは、この枠略を現在の危機に置き換えたものにほかならない。運命を信じること、それは運命が実現されるのを避けることだ――それがわたしの推奨する逆説的な合理性である。この信は、魅惑されることとはまったく反来のものだ。というのは、それが距離を置くという本質的な要件を含んでいるからだ。(49-50ページ)
 それは、宗教(この場合、キリスト教)の超越によって「破局の後」に身を置くことだ。キリスト教は人類史的な破局をすでに起こったこととして捉えている。そう捉えるなら、イエスが十字架にかけられたという決定的な破局の意義を深く理解しその意義を信じるが故に、黙示録的な魅惑に距離をとり超越的な外部を保持し、自己限定を行うことができるとデュピュイは言う。逆に言えば、破局に向かっていく過程を避けるためには、その過程から身を解き放さなくてはならず、それは「宗教」によるしかないと見る。だが、キリスト教のような宗教に先立って、破局に巻き込まれていく宗教があったと論じられる。
 こうした論の重要な前提は、現代文明が破局(カタストロフィー)へ向かう特徴をもっているという捉え方だ。また、それはもっぱら俗なるものによって起こされているわけではない。破局へ向かう過程が現代社会には埋め込まれているが、実はそれは「聖なるものの刻印」を帯びている。先にあげた例でいうと、何がもたらされるか分からない「ナノの夢」の魅惑も「聖なるものの刻印」を帯びている。原子力安全「神話」のことを思いだしてもいいだろう。だが、それらの聖性は十分な統合力をもつことはない。近代的な科学技術や他の諸システムが、限られた時空の聖性を再生産し続けながら何とか生き延び続けようとしている危うい「宗教」的なものだ。だから現代社会は「脱聖化」による解体の不安にとりつかれており、それがまた疑似超越的なものの再生産を促すことになる。
 デュピュイはこのような現代文明のとらえ方を、『暴力と聖なるもの』等の著者、ルネ・ジラールと『脱病院化社会 医療の限界』等の著者、イヴァン・イリッチから学んだと述べている。また、ハンナ・アレント、ギュンター・アンダース、ハンス・ヨナスという3人の「ハイデッガーの子どもたち」に負っているものが多いことも度々述べられている。これらの著者たちが論じていることの一つは、「悪の不可視性」ということだ。
 アレントが論じたように、イエルサレムのアイヒマンは単に凡庸な人物であることを露わにした。その凡庸さこそがナチスの巨大な悪を支えていた。これは原子力ムラの悪でも同様だ。官僚も専門家・科学者もそれぞれの部署のルーティンをきちんとこなしていた。その際、自らはぼんやりとしたものだったかもしれないが、聖性を帯びた大切な価値に奉仕していると感じていた。このように世俗性に依拠しているように見える現代社会だが、実は伝統的な宗教(主にキリスト教)から派生してきた聖性によってかろうじて統合を保っている。破局とはこの統合が弱まり(「脱聖化」が破壊的に進み)、突然、巨大な悪が露わになることだ。だが、破局が来るまで悪意は見えず、「悪」は不可視なので対処のしようがない。デュピュイは福島原発災害後の日本人には身近な国際原子力機関(IAEA)にも触れている。
ウィーンの国際原子力機関は、「世界中の平和や健康や繁栄のために原子力の貢献を促進し増大させる」ことを使命としている。神よ、そんなことからわれらを守りたまえ。今日ではわれわれは、悪人たちより富を生み出す産業化たちを恐れなければならない。イリッチは、本人たちの意に反しても救済を生み出すこと――その救済が「健康」、「移動性」、「教育」、「情報」と呼ばれているのだが――を使命とするこれらすべての「聖職者団」のうちに、それを生み出してきた聖職者集団の刻印、すなわち教会を見ていた。メフィストフェレス、つねに善を為そうとしてつねに悪を為してしまうあの力の一部、と。/悪はそれを犯す者とは独立しているというイリッチの説は、アンダースやアレントがそれぞれヒロシマとアウシュヴィッツについて熟考した分析と響き合っている。われわれが世界を判断するのにいまも役立っているカテゴリーを転倒させてやまないスキャンダルは、巨悪の不在によっても引き起こされるし、おそるべき責任が悪意のなさに随伴することもある、ということである。(59-60ページ)
 以上、序章「聖なるもののかたち」、第一章「アポカリプスを間近に考える合理性を旨とする現代社会において、悪を押し隠しつつかろうじて聖なる秩序の支えとなっているものは原子力に関わる巨大科学や人体改造や生命創造の先端生命科学だけではない。デュピュイは以下のような、「現代の合理性」の5つの領域を順に検討していく(29ページ)。
1)トランス・ヒューマニズム、つまり人類が科学技術によってそれ自身を超えてゆくにいたるという教義
2)進化主義とそれが宗教的なものの執拗な存続を理解するために努力するやり方
3)選挙主義あるいは政治的儀礼における数値科学の登場
4)経済主義と、とりわけそれが社会正義の問題を取扱いうる規範科学となったとする主張
5)人類がかつて為しえたうちでもっとも合理的かつ狂気じみた思考である核抑止理論の核心にある破局主義
 これらの諸領域で、合理性(社会科学等も含めた科学)は聖なるものに寄生しており、かつそれが解体されむき出しの暴力が現れる破局を前提とせざるをえず、さらにそうなることを防ぐ手だてをもたないと捉えられている。
 1つだけ紹介しよう。核抑止理論についての検討だ。それはそもそも倫理的な歯止めが失われざるをえない事柄として理解できる。
ヒロシマおよびナガサキの破壊の合理性と道徳性について問うこと、それはいまだに核兵器を目的のための手段として捉えるということである。だが手段は、川が海へ流れ込むように、その目的へ溶け込み、完全に吸収される。原子爆弾は、それにどのような目的を与えたり見出したりしても、あらゆる目的を超過している。(中略)なぜ原子爆弾が使用されたのか?まったく単純に、それが存在していたからである。ただそれが存在すること自体が脅威、あるいはむしろ、それが使用されることの約束なのである。(286ページ)
 核抑止論の合理性によれば、存在することが抑止力になるはずなのだが、実際には存在すること自体が使用される理由にもなる。
なぜそれを使用されることに道徳的な恐怖を感じられなかったのか。なぜこのような「アポカリプスへの盲目」があったのか。ある閾値を超えると、われわれの行為の力は、感覚する能力(キャパシティ)、想像する能力をはるかに超越するようになるからだ。この還元しえない隔たり、これをアンダースは「プロメテウス的落差」と呼んでいる。アレントは、アイヒマンの心理的欠陥に対して「想像力の欠如」という診断を下すことになるだろう。アンダースが示しているのは、特定の人間の欠陥ではない。行為の能力、そして破壊の能力が、人間の条件に対して不均衡なものとなったとき、万人が抱えることになる欠陥なのだ。(同上)
 原爆という巨大な暴力を押しとどめるはずの「抑止力」の理論は、まことにはかない聖なるもの、すなわち「破局的なものへの恐れ」なる聖性ということになるだろう。
 こうして現代世界がかろうじて依拠している聖性が解体してしまうこと、これが破局だ。聖性の解体はお互いがお互いを競争相手と感じて張り合い、模倣し合い、差異を失ってヒエラルキーが機能しなくなっていくことによって進んでいく。その結果、元来、人類が内に蔵している暴力性が聖性の歯止めを失い、カオス的な事態に陥っていくことになる。そこから特定の犠牲への暴力の集中を通して、新たに聖性を立ち上げざるをえなくなる事態が生じる。このように聖性が弱まって破局的事態が生じて暴力が噴出し、暴力が「悪」を負わされた犠牲者におそいかかり、その犠牲から聖性が再建される。
 ――これはルネ・ジラールが『暴力と聖なるもの』で打ち立てた宗教理解だ。そこでは暴力の集中としての供犠こそが、宗教の源泉であり、社会秩序の根底にある聖性だと捉えられている。デュピュイの破局論は、このジラールの宗教理解を、イリッチ、アレント、アンダースらの現代文明論や現代的な「悪」の哲学と結び付けたものだ。
 本書ではさらにそれを、若年時に感銘を受けたヒッチコックの『めまい』と関連づけている。『めまい』はまた、ボルヘスやベルグソンやヘンリー・ジェイムズらの自己意識と超越をめぐる思想地平とも関連づけられている。それはそれで興味深い事柄だが、そこまで踏み込まなくても、本書の「宗教と科学」「現代文明と倫理」をめぐる論の要点は抑えられるだろう。
 科学の素養と哲学的な思考ががっちり組み合わされた刺激的な書物で、現代人の倫理性を省みる力強い手がかりとなる。だが、ジラールの論にそってキリスト教に特別の意義が与えられ、宗教がもっぱら供犠を基盤として捉えられていることは受け入れがたいところだ。現代の科学技術や政治経済システムが破局に向かう傾向を宿していること、それを抑えることが可能だとしたら宗教的なものの力が必要であろうこと――これについては私もそう考える。また、だが、現代の科学技術や政治経済システムが宗教的なものによって支えられていること、これについても賛成する。これは市民宗教論とかナショナリズム論、あるいは「ユートピアとイデオロギー」といった形で度々論じられてきたことだ。さらに、近代化が進んで平準化された人々の間で差異の喪失が起こり、暴力の増幅をもたらす傾向があることについても異論がない。
 だが、その場合の宗教と暴力の関係を、もっぱらキリスト教を範型として考えるのはいかにも狭苦しく感じられる。たとえば、現代の非暴力思想といえば、ガンジーの宗教に根ざした不服従抵抗運動が思い出されよう。そこではヒンドゥー教や仏教やジャイナ教が伝えて来た「不殺生」の宗教思想の伝統が生きていた。そのような比較宗教・比較思想的なパースペクティブを含み込むことができれば、本書の考察はさらに大きな説得力を発揮することだろう。そうしたパースペクティブはアジアの場でこそ豊かに展開されうるのかもしれない。
 なお、十分に展開されてはいないにしても、そうした比較宗教論の視座を可能にする内容もデュピュイの考察に含まれているように思う。たとえば、アンダースを受けて「ネガティブな超越」にふれている箇所だ(164-166ページ)。無神論者であるアンダースは、原爆の死者が何かの目的のための犠牲者として遇されることを拒んだが、そこに「宗教的な次元」があることを認めていた。「それはただ、あらゆる人間的な尺度を超越し、いかなる神もそれを妨げることのできない、人間の行為に対する恐怖のこと」だと述べた。デュピュイはこれを「ネガティヴな超越」と言いかえている。「神の蝕」といった言葉でも表現されそうな事柄だが、この「ネガティヴな超越」は仏教の不殺生の思想と照応するものと受け止めることもできないだろうか。



 

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