恵「ケアについて」論文では、この内容を語る部分に「差異の中の同一性」との題が付けられている。そして、「私たちは相手と一体である(同一性)と感じると同時に、相手のもつかけがえのない独自性、また自分自身のもつ独自性(差異)を、よりしっかりと意識する」のだと説明している。「それ自身として尊重する」とか「それ自身のありようにおいて独立した」と訳した箇所の英語は「in its own right」という句で度々出てくるが訳しにくい。「他者」に「 」を付けているのも訳しにくさと関わっている。ここでの「他者」は文字通りの他者がモデルではあるが、場合によっては作品であったり、仕事であったりもする。そのような拡張した意味での「他者」なのだ。
メイヤロフが「基本パターン」を説明するときのキーワードとして、さらに「成長」と「自己実現」がある。
ケアする際に経験される相手との合一の体験は、寄生的関係で起こる合一とは異なっている。相手を支配したり所有しようと試みるのではなくて、私は、それ自身として成長すること、またよく言われるように“それらしくなる”(to be itself)ことを望んでいる。また私は、幸福について私が感じることと相手の成長とが結びついていると感じている。「他者」の中に私が感じとっている価値(かけがえのなさ)は、それが私自身の必要を満たしてくれることによって私に対して持っている価値よりも、ずっとずっと大きく優れたものなのである。ケアしている親にとって、子供はそれ自身の価値を持っていると感じられている。そのときその価値は、親たちの要求を子供が満たす力を持っているのとは全く別のものなのである。(中略)言い換えれば、私はケアする「他者」が、それ自身としてかけがえのない価値をもっている(having worth in its own right)ことを経験するのだ。(19-20ページ)
もし私がある「他者(人であれものであれ)」を、それ自身のありようにおいて(in its own right)経験していると、心の底から感じとっていないならば、現在ほかにどのようなことが進行していても、私はケアしているということにはならない。(88ページ)
子供たちに対していかに多くのことをしてあげたとしても、子供はこうあるべきだという親の関心が優位に立っているとしたら、子供は自分が「それ自身のありようを認められた個として(as an individual in its own right)」ケアされていると感じることはできないだろう――こうメイヤロフは述べている。メイヤロフのケア理解の急所がここに現れているようだ。子供を「それ自身のありようを認められた個」として遇することと、「親の背中を見て育つ」ように導くこととの間で考え方の相違があるのではないだろうか。ここには「個」への言及があるが、最初にふれた「自己」という前提と関わりがあるだろう。
「W.人をケアすることの特殊な側面」では、本書の課題は作家や芸術家の自分の“新構想”(作品)へのケアなども含めた広いケア論であるとしても、人へのケアが中心的であることが示唆されている。続く「X.ケアはいかに価値を決定し、人生に意味を与えるか」では、ケアは生活全体に意味を及ぼしていき、生きることそのものに安定した形を与えていくものであることが述べられている。
こうして、「関わり深い「他者たち」(appropriate others)」との間でケアの持続的な関係が形成されていくなら、それは「私がこの世界で“場の中にいる”(“in-place” in the world)」ことを可能にする。それは「生の意味を生きる(living the meaning of my life)」ことをもたらす。
自己の生の意味を生きることは、私自身と関わりが深い「他者たち」をケアすることにより“場の中にいる”ということである。もちろんそのように生きることが、必ずしも最大の喜び・最大の快適さを与える生だということではない。こうした生にも困難や悲しみが数多く含まれているだろうし、また、それが最も豊かな文化生活である必要もないのである。しかしながら、こうした生こそが私自身の生であり、自分の存在に根ざしたもの(rooted in my own being)であって、決して自分とかけ離れたものではない。(133-134ページ)