倫理良書レビュー 2014年2月 島薗教授おすすめの図書



 ミルトン・メイヤロフ 著 
 『ケアの本質−生きることの意味』 (田村真・向野宣之訳)
             ゆみる出版 2001年、原著 1971年


 「ケア」という言葉をカタカナでない語に置き換えると、「世話する」「気づかう」「気にかける」「心配する」「配慮する」「面倒をみる」「注意する」「看護する」などとなる(英和辞典参照)。他者に対する行為や姿勢が基本だ。しかし、意味を広めればものや場所や環境や関係や組織や人の集まり、さらには自分自身にも使うことができる語だ。「じゃあ元気でね」「お大事に」というような意味で「テイク・ケア」とも言う。「大事にする」「大切に見守り育む」はケアのあり方を解き明かす手がかりともなる表現だろう。
 「ケアのあり方を解き明かす」と述べたが、この本でメイヤロフがしようとしているのは、まさにそのようなことだ。「序」にはこの本で述べていくことのエッセンスがまとめられている。まず、こう書き出されている。
一人の人格をケアするとは、最も深い意味で、その人が成長すること、自己実現することをたすけることである。たとえば、わが子をケアする父親を考えてみよう。彼はその子を、その子自身が本来持っている権利において存在するものと認め、成長しようと努力している存在として尊重する。彼はその子にとって自分が必要であると感じているし、その子の成長したいという要求に彼がこたえることによって、その子が成長するのをたすけるのである。ケアすることは、自分の種々の欲求を満たすために、他人を利用するのとは正反対のことである。私が言おうとするケアの意味も、もう一人の人格について幸福を祈ったり、好意を持ったり、慰めたり、支持したり、単に興味を持ったりすることと混同してはならない。(13-14ページ)
 メイヤロフはケアとは何かを考える手がかりに父と子の関係を置いている。付録に「本書の原型ともいうべき論文」(「訳者あとがき」227ページ)、「ケアすること」(1965年、実は本書と同じ題=On Caring)が掲載されているが、そこに「この論文を通して私が心に描いているある特定の例は、わが子をケアする父親」(184ページ)だとあるとおりだ。父と子の関係の倫理性をこのように深く広く描き出すということに感銘を受ける。また、それを一般的なパターンとして述べる現象学の手法からも多くを学べる。
 まず、「基本的なパターン」が説かれている。そこでは自己と他者がそれぞれ異なる存在でありながら、自らの一部として他者を感じる関係を明らかにしていく。丁寧に分かりやすい日本語に訳された訳書だが、どれを選ぶのか難しかったと思われる訳語もある。「訳者あとがき」にも「原著そのものを入手し、親しむことを是非おすすめしたい」とある。そこで、ここは原著を参照して私なりの訳語を交えて紹介させていただく。
ケアの相手が成長するのをたすけることとしてケアの中で、私はケアする「他者」(一人の人格であったり、理想であったり、思いつきであったりする)を、私自身の延長のように感じとる。またそれと同時に、私とは別のものであり、その「他者」それ自身として尊重するような何ものかとして経験する。私の一部として相手を感じとるこの感情は、「他者」に不健全に依存することや、ある信念・信仰に教条的にしがみつくことのような寄生的な関係にみられる、他のものとの合一の感情とは異なっている。というのは、この二つの依存関係では、私は相手を、それ自身のありようにおいて独立した「他者」として経験することはできないし、誠実に応答することもできないからだ。(18-19ページ)
 恵「ケアについて」論文では、この内容を語る部分に「差異の中の同一性」との題が付けられている。そして、「私たちは相手と一体である(同一性)と感じると同時に、相手のもつかけがえのない独自性、また自分自身のもつ独自性(差異)を、よりしっかりと意識する」のだと説明している。「それ自身として尊重する」とか「それ自身のありようにおいて独立した」と訳した箇所の英語は「in its own right」という句で度々出てくるが訳しにくい。「他者」に「 」を付けているのも訳しにくさと関わっている。ここでの「他者」は文字通りの他者がモデルではあるが、場合によっては作品であったり、仕事であったりもする。そのような拡張した意味での「他者」なのだ。
 メイヤロフが「基本パターン」を説明するときのキーワードとして、さらに「成長」と「自己実現」がある。
ケアする際に経験される相手との合一の体験は、寄生的関係で起こる合一とは異なっている。相手を支配したり所有しようと試みるのではなくて、私は、それ自身として成長すること、またよく言われるように“それらしくなる”(to be itself)ことを望んでいる。また私は、幸福について私が感じることと相手の成長とが結びついていると感じている。「他者」の中に私が感じとっている価値(かけがえのなさ)は、それが私自身の必要を満たしてくれることによって私に対して持っている価値よりも、ずっとずっと大きく優れたものなのである。ケアしている親にとって、子供はそれ自身の価値を持っていると感じられている。そのときその価値は、親たちの要求を子供が満たす力を持っているのとは全く別のものなのである。(中略)言い換えれば、私はケアする「他者」が、それ自身としてかけがえのない価値をもっている(having worth in its own right)ことを経験するのだ。(19-20ページ)
 ここで「それらしくなる」と述べられていることは「自らを実現する(actualize himself)」(原著、1ページ)とも述べられており、先の方では「自己実現(self-actualization)」という語が用いられている。
 メイヤロフの理解ではケアは「他者」の「自己」が「成長」したり「実現」したりするのを助けることだということになる。ただ、必ずしも「自己」というものを実体化しているわけではない。「自己」とは何かということは横に置いておいて、「かけがえのない」「価値worthあるもの」としてある他者とケアする者との間で何が起こるかについて記述していくのだ。
 そのとき他者に起こることは必ず「成長」や「自己実現」でなくてはならないだろうか。父が子をケアするモデルではきわめて自然な表現だが、高齢の親をケアする子の場合はどうだろうか。ここは疑問が残るが、かわりにどのような表現が可能かかんたんには思い浮かばない。読者が答えを探すべき宿題だろう。
 まず、ケアする者は「専心」すると述べられている。日本語読者に分かりにくい語だが、これはdevotionの訳語だ。「深く心を向け続けること」とでも訳せようか。「無関心」や「忙しくて気が散る」ことに対置できるだろう。だが、単に多くの時間を費やすというような量的な事柄ではない。メイヤロフはこう述べる。
私は他者に、そして大部分は見えない未来に私自身をあずける。……専心は私のケアの程度を単にはかるだけではなく、他の誰でもないこの他者へのケアが実質を持ち固有の性格を帯びるのは、この専心を通してなのである。ケアすることは、種々の障害や困難をのり越える過程の中で発展していくのである。私の専心は、私が他者の中に感じとっているかけがえのない価値によって基礎づけられている。……ある特定の場を考えてみると、専心は、他者のために私がしりこみしたり、どちらでもよい曖昧なあり方を示したりすることと正反対のあり方で、“そこに”その人のために私がいる、ということによって示される。もっと長い目でみた場合、専心は私の首尾一貫性によって示される――不利な状況のもとで退かないことや、困難をすすんで克服していくことにみられる一貫性である。この一貫性は自由を与え、私の意志を表現している。(24-25ページ)
 このようにわが身を他者に何ほどか捧げるのだが、それは他者の成長のためであるとともに、自分も成長を感じ取り、幸福感を得る。自分が他者から必要とされていることを実感し、他者を自分自身の延長のように受け止めるからだ。
 以上は「基本パターン」の紹介で、それに続いてさまざまな角度からケアを読み解いていく。まず、「U.ケアの主な要素」では、「忍耐」「正直」「理解力」「信頼」「謙遜」「希望」「勇気」「責任における自由」など、ケアに関わる徳目が取り上げられていく。その中から3つだけ紹介しよう。
 「忍耐(patience)のおかげで、私は相手にとってよいときに、相手にそった方法で、相手を成長させることができる」。相手に時間を与えて、自らの好機を見つけさせる。それまで待たなくてはならない。その間、他者とともにあり続けることもある。また、忍耐と寛容は関連する。相手が不適切なことをしたとしても許容するのは、成長に欠かせないむだや自由を尊重することであり、相手の成長への敬意の表明なのだ。
 「信頼(trust)はケアする相手の存在の独立性を、他者は他者なのであるとして、尊重する。」相手は過ちを犯すかもしれないが、彼はその過ちから学ぶことができると信じる。こうした信頼が欠如すると、相手より優位に立とうとしたり、ある鋳型に無理やり当てはめようとしたり、“ケア”しすぎたりすることになってしまう。
 「謙遜(humlity)」。ケアする人はケアされる人から学ぶ。常に新たに学ぼうと思っている。また、よいケアができる人は自分のケアが特権的なものとは考えない。他の人のケアより自分のケアの方が重要だなどということにとらわれてしまえば、ケアから離れてしまう。相手の成長にこそ関心を寄せていると、自分をさらけ出すことができるようになる。そして自分の限界が本当に理解できるようになる。
 続いて、「V.ケアの主要な特質」では、ケアする者が自己中心性を超えて他者との厚い関わりが求める姿勢をとることが示されている。まず「無私(selflessness)」という特徴があげられる。だが、それは自己を失うことではなく、「最高の覚醒、自己と相手に対する豊かな感受性、そして自分独自の力を十分に活用することを意味する」。つまり自己実現することにもなる。「言い換えれば、信頼、理解力、勇気、責任、専心、正直に潜む力を引き出して、私自身も成長する」。他者に焦点を合わせているからこそ自己実現が起こるのだという(69-70ページ)。
 また、「ケアにおいては、成果よりも過程が第一義的に重要である。というのは、私が他者に寄り添う(attend)ことができるのは、現在においてのみのことだからである。」(71ページ)もちろん目標をもつことを否定するわけではない。しかし、現在はそれ自体のために大切なものとしてとりくまれなくてはならず、彼方にあるものに対する手段とて扱われ、未来(結果)に従属してはならない。
 この「V.ケアの主要な特質」ではさらに、ケアは連続性を前提としていること、相手もケアを受けいれる能力が必要であること、「自責感(guilt)」は責任の自覚にとって重要であること、「相互性(reciprocation)」がある場合とない場合があることなどがあげられている。そして最後に「ケアであるといえる範囲」について述べられている。
もし私がある「他者(人であれものであれ)」を、それ自身のありようにおいて(in its own right)経験していると、心の底から感じとっていないならば、現在ほかにどのようなことが進行していても、私はケアしているということにはならない。(88ページ)
 子供たちに対していかに多くのことをしてあげたとしても、子供はこうあるべきだという親の関心が優位に立っているとしたら、子供は自分が「それ自身のありようを認められた個として(as an individual in its own right)」ケアされていると感じることはできないだろう――こうメイヤロフは述べている。メイヤロフのケア理解の急所がここに現れているようだ。子供を「それ自身のありようを認められた個」として遇することと、「親の背中を見て育つ」ように導くこととの間で考え方の相違があるのではないだろうか。ここには「個」への言及があるが、最初にふれた「自己」という前提と関わりがあるだろう。
 「W.人をケアすることの特殊な側面」では、本書の課題は作家や芸術家の自分の“新構想”(作品)へのケアなども含めた広いケア論であるとしても、人へのケアが中心的であることが示唆されている。続く「X.ケアはいかに価値を決定し、人生に意味を与えるか」では、ケアは生活全体に意味を及ぼしていき、生きることそのものに安定した形を与えていくものであることが述べられている。
私のするケアが十分包括的であるならば、このケアは私の生活のあらゆる領域に深くかかわってきて、実りある秩序を提示する。このような具合に、ケアはある中心となるものを設定するのであり、そのまわりに私の活動や経験というものが全人格的に統合されてくるのである。このことは、奥深くかつ持続的な世界に対して自己を調和させる結果となる。(112-113ページ)
 こうして、「関わり深い「他者たち」(appropriate others)」との間でケアの持続的な関係が形成されていくなら、それは「私がこの世界で“場の中にいる”(“in-place” in the world)」ことを可能にする。それは「生の意味を生きる(living the meaning of my life)」ことをもたらす。
自己の生の意味を生きることは、私自身と関わりが深い「他者たち」をケアすることにより“場の中にいる”ということである。もちろんそのように生きることが、必ずしも最大の喜び・最大の快適さを与える生だということではない。こうした生にも困難や悲しみが数多く含まれているだろうし、また、それが最も豊かな文化生活である必要もないのである。しかしながら、こうした生こそが私自身の生であり、自分の存在に根ざしたもの(rooted in my own being)であって、決して自分とかけ離れたものではない。(133-134ページ)
 それは深い関わりのある「他者たち」の呼びかけにこたえるという意味で「使命(calling)」にそって生きることだともいう。それは「自分の使命」という点で他者と異なる私自身を強く意識させるものなのだが、そのことによって「友人たちの使命」もよく理解できるようになる。だからもちろん孤高と感じたり、孤立したりすることなどではない。
 「Y.ケアによって規定された生の重要な特徴」では、こうした人生が深い意味を与えるものであり、それは世界の意味や生きている意味が「わかる(intelligibility)」とともに「捉えきれない(unfathomability)」ものであること、そうして「信(faith)」や「感謝(gratitude)」にも通じていることが示されている。宗教的な次元が示唆されていると言ってもよいだろう。
(捉えきれないもの)、それは驚きと全く同じなのだが、経験し、理解し、感得するものなのである。私は、この世に生まれ、そしてまたいつの間にか死んでゆく神秘についてだけを言っているのではない。……むしろ私は、存在の持つ神秘そのものについて言っているのであり、そもそも森羅万象がここに存在しているという壮大な神秘、驚異について言っているのだ。……これは私たちに、他者や自分自身の独自性をますますよく理解させるのである。自分自身の存在がとるに足らないことを、私はより深く認識するにいたる。……またそれと同時に、私は自分のかけがえのない価値、決して繰り返すことのできない存在としての限りない貴重さに、より一層気がつくようになるのである。(158-159ページ)
 ケアについて多くを教えてくれるとともに、善き生について多くを教えてくれる書物である。また、孤独が広がり、ケアする「他者」を受け止めにくく、「場」を形作りにくい現代世界のあり方について省みさせてもくれる。私たちは「結果」「成果」に追われ「過程」を軽んじることで、ケアしあう関係を細らせているのではないだろうか。
 私自身は共感するところの多い本書だが、最後に「自己」の「成長」とは何か、また「成長」に限定されない目標は何かという問いが残っている。そして、わが人生を省みながら、自分なりにケアを定義し直すという問いにもさらに取り組んでいかなくてはならないだろう。



 

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