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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2014年3月 島薗教授おすすめの図書



 西平 直 著
 『無心のダイナミズム−「しなやかさ」の系譜』 岩波書店 2014年刊


 倫理や宗教に関わる話には、難しい論理を含んだ用語や、日常生活から手が届きそうにない次元を指し示しているかに感じられる用語もある。功利主義(ミル)とか義務論とか根源悪(ともにカント)とか神秘主義(トレルチ)といった用語が出るだけで、とっつきにくくて相手にしたくないと思う人も多いのではないだろうか。
 ところがここに手近な経験に引き寄せて考えることができる、日本人になじみ深い語がある。「無心」だ。哲学・宗教・心理学に造詣が深い教育学者の西平直氏が、「無心」という語の意味するところを多面的に探り、分かりやすく解き明かしてくれている。「ふだん着で哲学できる」手助けになる書物だが、だからといって心に残らぬ浅い内容ではない。身についた哲学的思考により自らを振り返る機軸を生み出してくれるかもしれない。
 ところで、教育学者である著者は教室での学生たちの反応から学ぼうとする姿勢が身についている。本書の冒頭でも学生のレポートが引かれている。「ピアノの発表会の時、一度だけ、うまく弾けたことがありました。無心に弾いていたのだと思います」(vページ)。こう書く時、学生は「無心」の経験に会得したい何かを見ている。著者によれば、学生はそこに何か「尊い」ものを感じ取っているのだ。
普段とは違う特別な意識の状態。緊張して固くなるのではない。多くの場合、最高のパフォーマンスと結びついている。善い結果を狙ったわけではないのだが、なぜか不思議と、うまくできてしまう。そうした出来事を語るために、若い人たちも「無心」という言葉を使うのである。
面白いことに、学生たちがこの言葉を「失敗」と結びつけて用いることはない。「無心でやったのに失敗した」とは語らない。あるいは「無心でやったから失敗しました」と語るレポートにもまだお目に掛ったことはない。ということは、この言葉は何らか「尊い」言葉。ある学生によれば、「言い訳として使っては申し訳ない」言葉なのである。(vページ)
 著者も意識しているはずだが、学生は「善きもの」を目指して教室に来ている。もし、相手が累犯の泥棒だったら、「泥棒の名人」という話もできないわけではない。科学者の不正がニュースになることが多い現代では、熟達が「陳腐な悪」(アーレント『イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』)につながる場合もある。だが、これは後ほどふれよう。
 「尊い」ということだが、「無心」は宗教とともに武道や芸道と関わりがある。本書でも禅とともに、能・謡曲の世阿弥が度々、引き合いに出されている。倫理の問いであると同時に美学的な問題でもある。宗教・倫理・芸術・教育にまたがるような事柄として「学び」があり「稽古」がある。ここで問われているのは、心と身体の双方を含め自己を修練し高めていくことだ。
「簡単なこと」が、上手にやろうとすると、ギコチナクなる。ではうまくやろうと努めない方がよいのか。稽古などしない方がよいのか。稽古とは〈上手になろうと努めること〉なのか、それとも〈上手になろうと努めることを止めること〉なのか。
そうやって考えるから囚われる、と何度も叱られながら、それでも先人たちの言葉を聴き続けていると、どうやらその「考えない」の裏側に、何らか〈特殊な「考える」〉が隠れている。(237ページ)
 ふつうの状態だと何かに囚われがちで、十分に自由になれない。そこで囚われないように何かを否定する。無や空になろうとする。それがうまくできた時には、今度は新たな肯定が働き出している。
単に「考えない」のではない。考えないとき、空っぽになり、空っぽであればこそ、〈新しい質の「考える」〉が生じてくる。西田幾多郎は「物となって考える」という。〈物と対立した私〉が〈物(対象)〉について考えるのではない。〈物と一体となった新しい質の「考える」〉が、その時その場に即して、新たに生じてくる。(237-238ページ)
 ここで、何か日々の学びを深めていく際の「コツ」のようなものが示唆されている。著者の会得している何かがヌッと顔を出すように思えるところだ。そして次の箇所でもっと分かりやすくなる。
この「空っぽ」の原風景は、私の場合、呼吸の「すき間」である。吐く息と吸う息の「すき間」。
息を吐いてゆき、息が無くなると、静かに息が入ってくる。息を吐き終え、息が無くなった一瞬、しかし、まだ息が入り始めるまでのあいだに「すき間」がある。ヨーガを習いたての頃、私はこの「すき間」に意識を向ける課題を与えられた。「すき間」を大切にすること、「すき間」を少しずつ長くしてゆくこと。(238ページ)
 この課題を長く続けていると、次第に「すき間」がゆったり、長く感じられるようになってきたという。否定から肯定への転換が、吐く息から吸う息への転換の「すき間」として意識されるようになったと捉えられているようだ。
ではその一瞬の「すき間」が無心なのかと云えば、そうではなくて、そのすき間の前後、息が入れ替わる出来事が無心である。というより、息を吐いてゆき、息が無くなると、静らに入ってくるという、その一連のプロセス全体が無心なのではないか。(238ページ)
 ここで、著者が捉えている無心の「コツ」の極意というか、「手の内」を教えていただいたような気がする。自分のうちに何か対応する「コツ」や「手の内」があるか、問い直している自分がいる。「しなやかさ」とはなるほどそういうものかと納得する。
 だが、それと同じぐらい、あるいはもっと重要なのは、思想としての「無心」だ。そして、本書は「無心」をめぐる思想史と思想の種々相を味わい深く、かつ分かりやすく説いていく。
 「無心」という語には「心ない」という意味があり、こちらの方が古かった。鴨長明の『無名抄』には「無心なる女房などの哥よみかけたる、術なき事多かり」という一節があるが、これは「思慮のない、風流心のない女房」という意味だ。ところがすぐ後の時期の一遍には「有心は生死の道、無心は涅槃の城なり」(『一遍上人語録』)とある。その後、「無心」の意味は後者に集中するようになったが、今でも「心ある」「心ない」という語はよく使われるから古い意味がなくなってしまったわけではない。「金を無心する」の「無心」もまったく違う語とは言えないだろう。
 一遍の用法にあるように、高い境地としての「無心」は仏教と関わりがあるようだ。事実、西田幾多郎や鈴木大拙はそのように理解していた。西田は「己を空うして物を見る、自己が物の中に没する、無心とが自然法爾とか云ふことが、我々日本人の強い憧憬の境地であると思ふ」と述べている(3ページ)。この「自然法爾」は親鸞が用いた語で、鈴木大拙の『無心といふこと』(1939年)に引かれている。この二人は浄土真宗の影響が濃い石川県の出身の哲人だが、ともに禅と浄土真宗の重なりあうところに仏教の真髄を見ようとしていた(41ページ)。
 このように『無心といふこと』では真宗も参照している。だが、論述の主眼は禅だ。実際、仏教史上で「無心」が主要な概念として登場するのは中国においてであり、禅が主役である。だが、中国ではそれに先立って、老荘思想に「無心」にあたる概念があった。「心を虚にして物を待つ」という意味で「無心得られて鬼神服す」(『荘子』「天地篇」)といった句もある。ここでの「無心」は「何ものにも囚われない自在の境地」といった意味で、「己の心を虚しくして世に遊わる」という意味で、「遊心(心を遊ばせることができる)」とも言いかえられるという(18ページ)。仏教と老荘思想という二大潮流が「無心」の源流ということになる(19ページ)。
 禅の創始者は達磨大師(5世紀―6世紀前半)だが、この達磨に始まる初期禅宗においてすでに「無心」が説かれていた。大拙はこの達磨の「無心」の解説に多くの力を注いでいる。『無心論』において達磨は、「心という実体はない。「はたらき」だけがある」と説いた。では、なぜ人は苦しむのか。無心なのになぜ人は苦しむのか。なぜ輪廻があるのか。「それらはすべて人々が〈心〉を作り出した結果として生れてきた。本来、心は無かったのに、迷妄のゆえに〈心〉を生じさせ、業をつくり、それに執着したために生じてきた」(60ページ)。これは「一切皆空」を説く大乗仏教の般若思想を継承しているが、とくに「心」がないことが強調されているのが特徴だ。
 そこには「安心(あんじん)」の経験があった、と著者は大拙の解説を敷衍している。「心」は「無い」と覚悟することによって、「自らがそれである「心」と実践的に向き合うことを説いた」。「心を(理論的に)求め歩くのではなく、あらためて(直接的に)生きることを説いたのである」(64ページ)弟子の慧可が達磨に問う。「心が不安でなりません。どうか私の心を落ち着かせて下さい」。達磨は答える。「その不安になっている心を取り出してみよ。そうすれば安心させよう」。慧可が「見つかりません」と答える。すると達磨は言う。「これでもうお前の心を落ち着かせた」。これが達磨と慧可の「安心問答」とよばれるものだ。
 著者はこの段階での「無心」は、否定的・禁欲的な傾向が強いものだったが、やがて禅の中にもより肯定的な「無心」の思想が広がっていくという。
日々の暮らしを生きること。「衣を着し、飯を喫し、困じ来たらば、即ち臥す」(『臨済録』)。しかし、ぼんやりと「飯を食う」のではない。いかなる逆境にあっても、いかなる順境においても、微動だにせず、悠々と暮らすこと。ゆっくりと騒ぐことなく、天地の運行、自然の大道にしたがって生きること。
 禅思想の中国での展開を分かりやすく説明しながら、否定と肯定が共存すると捉えられる「無心」の思想の核心的な特徴を捉えている。仏教が「中国大陸の風土と結びつき、老荘の思想と結びついて生まれた境地だ。「老荘の無為自然と、仏教の般若の智慧とが見事に結合して生れたのが、中国の禅である」(鎌田茂雄『中国の禅』)。
 この動向が進み、馬祖道一(七〇九−七八八)で転換点を迎える。「即心是仏」、すなわち自分の心がそのまま仏であるという考え方が出てくる。「しかし、そうなると、修行は要らないのか。要らない。それどころか、馬祖によれば、求めてはならない」(69六九ページ)。「平常心(びょうじょうしん)是(ぜ)道(どう)」となるが、これを大拙はこう説明する。
道を求めて修行する必要はない。ただ、汚してはならないだけである。汚すとは、はからいを持つこと、道に向かおうとする。意識である。もし「道」そのものを願うならば、平常心がそのまま道である(若し直にその道を会せんと欲せば、平常心是れ道なり)」。(同前)
 だが、これでは「安易な現状肯定に満ちている」。修行などいらないのであれば、「安穏とした怠惰をむさぼることと区別が付かない。それどころか怠惰を誇りさえする」。(73ページ)
 馬祖もそのことに気づいており、「非心非仏」をも説いていた。これは自己否定の力を今一度呼び戻そうとするものだと著者は解している。
一方で〈ありのままを受け入れる工程のベクトル〉を馬祖の「平常心」に代表させ、他方で〈無へと向かう否定のベクトル〉を達磨の「無心」に代表させてみるなら、禅の思想における「無心」の歴史は、その両極の間を激しく反転し続けることによって、初発の輝きをそのつど蘇らせようと努めてきたことになる。(75ページ)
 「無心」が本来的な意義を発揮するのは、肯定的なものと否定的なものの緊張関係が不可欠だというのが著者の理解で、本書の中心的な論点と云えるだろう。
 その後、論は日本における「無心」の思想の諸相に向かっていく。中世から近世にかけては、世阿弥、沢庵、石田梅岩が取り上げられ、近代では小林秀雄、井筒俊彦、久松真一が、またユングが取り上げられていて、それぞれ興味深い。「無邪気」「無意識」「無私」といった語との関係の探索も教えられるところが多い。
 ここではとくに、石田梅岩を素材として論じられている「無心」の倫理性の問題を取り上げたい。著者は第八章「石田梅岩「無心の天」――「天地万物と一体となった心」と社会倫理」で、この問題をとくに力を入れて論じている。
梅岩によれば、「悟る心」とは天地万物と一体となった心である。「我と天地と渾然たる一物」になる時、その「心」を「無心」といい。その「天地」も「無心」という。その原点が庶民の生き方として展開される時、いかなる社会倫理として語られるのか。無心にふさわしい生き方とはどういうことなのか。(160-161ページ)
 梅岩は開悟の体験を経て、「天地の心」と一体となった「無心」の境地を得る。「梅岩の語る「無心」は、人間の側の「心」の問題であったと同時に、天地の側の「はたらき」でもあった」(167ページ)。そして、天地の側の形而上学的な「無心」は「無心の天」「天地の心」とも言い換えられる。では、この「無心」は「いかに町人の生き方と結び付き、社会倫理となったのか。」(169-170ページ)
 ここで「形に由るの心」という考え方が入り込む。「天地万物と一体化した心」は、いまだ何らの個別性を持たない。それがたとえば蝶になるとすれば、それは蝶の「私心」によるのではなく、「形に由るの心」による。形が先にあって、それぞれの存在は受け入れるべき形に即した「心」を生きることになる。そして、それが「無心の天」に適うことになる(170ページ)。梅岩はこう言っている。

……松は緑に、花は紅、侍は侍、農人は農人、商売は商売人、職分の外に臨み有らば有心にして、無心の天に違へり。違へば天命に背く。(『語録』上、473ページ)
 このように「知足安分」、身分の即した生を穏便に送るというのは、「自ら考えることの放棄」ではないかと思想史家の黒住真氏は論じている。これが「無心」が陥りやすい社会倫理なのだろうか。冒頭に記したように、現代社会では「陳腐な悪」という現象が広く見られる。官僚的な熟達により、「無心」のうちに同調圧力が行使されるような場合だ。
 著者は黒住氏の捉え方を半ば肯定している。だが、他方、「梅岩の思想は、後の「心学」思想とは異なり、「ラディカルな社会変革」の可能性を秘めて」いたという解釈もあるという(173ページ)。「天地の心」「無心の天」に従うということの中には、変化する世界のあり方にそって生きるという考え方も含まれていたのではないかという解釈だ。
 著者はこの問題について主題的に論じてはいない。石田梅岩についてもそうだが、他の「無心」の思想についても、社会体制に順応する思想になりやすいのか、そうではない自由の可能性をもっているのかという問いが成り立つ。「無心」における肯定的な要素と否定的な要素の緊張関係というのが答えなのかもしれない。しかし、著者はそれを(社会)倫理の問題に結びつけていない。だが、恐らく答えはすでに著者の念頭にあるのではないだろうか。
 私なりの問いはこうなる。そもそも「無心」の思想にとって、他者との亀裂や葛藤はどのような位置をもっているのだろうか。何かに囚われている自己が否定されて「空っぽ」に近づいていくのだが、その囚われの中では他者との亀裂や葛藤は核心的な要素だろう。そうであれば、自在になった平常心的な「無心」の境地では、他者との亀裂や葛藤は克服されたことになるのだろうか。やっかいな他者がなお存在し、「無心」を脅かし続けるのではないだろうか。つまり、「無心」の論理(形而上学?)は最後の答えではないということになるのではないだろうか。



 

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