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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー2011年5月おすすめの図書



 小此木啓吾著
 『対象喪失─悲しむということ』
中公新書 1979年刊



 2011年の6月中旬に私は母の3回忌を迎える。すぐ後に、東日本大震災の100ヶ日が来る。震災で近しい人が世を去ったわけではないが、連日、多くの方々が亡くなったニュースを見聞きし、遺族となった方々の悲しみに暮れる姿に接した。失われた土地、家財を取り戻すこともままならない方々がたくさんおられる。また、福島第1原子力発電所の事故による災害では、多くの人びとが住みなれた土地を去らなくてはならなくなった。チェルノブイリ原発事故の際の居住禁止地域にあたる放射性物質蓄積量がある地域は東京23区の面積に相当するという。豊かな自然に恵まれた日本の国土の大きな一部が、長期にわたって失われた場所となる。
 私が住む東京は放射能汚染は事故原発から200200キロ離れているが、安全な環境が失われたという感情はぬぐい去ることができない。テレビ報道を見てついもらい泣きなどしているが、涙もろくなったと感じるのはこれらのことと関わりがあろう。
 東北、北関東の住民をはじめとして、喪失と悲しみで心がふさがっている方々は少なくないだろう。だが、そもそも人の一生は生の喜びと同じほどの喪失と悲しみによって織り成されているとも言える。人間が成長し、成熟し、老い、死んでいく過程とは、喪失と悲しみと断念を繰り返しながら、他者、世界、そしてついには自ら自身の喪失をも受け入れていく包容力を育んでいく過程なのではないだろうか。

 精神分析という新たな心理学を創出したフロイトの生涯は、この喪失と悲しみの思想を練り上げる過程だったとも言える。科学主義者と見ることもできるフロイトだが、宗教にかわる喪失と悲しみの受け皿を求めた思想家とも理解できる。
 フロイト以後、父子関係を協調した創始者に学びつつ、母子関係に注目する学者たちが登場する。母から離れていく子どもたちが、依存の「対象」からの分離をどのように受け入れていくかが注目され、「対象関係」「対象喪失」についての新たな知見が積み重ねられ、フロイトの洞察はさらに分かりやすく捉えられるようになった。日本の精神分析の第2世代に属し日本の場からのフロイト説の創造的解釈に努めた著者は,「対象喪失」とそれに対処しようとする「悲哀の仕事」(喪の仕事)こそフロイト理論の核心にあるものと見た。
 「まえがき」の書き出しはこうだ──「本書でいう対象とは、愛情・依存の対象である。この意味での対象を失うことの悲しみをどう悲しむかは、人間にとって永遠の課題である」。悲しみという「仕事」は「人はどう生きるか」という「永遠の課題」に深く関わる。現代人はそのことを自覚しているだろうか。著者は現代人は人間としての成長、成熟に必須の課題である「悲哀の仕事」から逃げていく傾向があるという。
 では、「悲哀の仕事」とは何か。「失った対象への断ちがたい思慕の情に心を奪われ、怨み、憎しみ、つぐないの心が錯綜する。「悲哀の仕事」とは、これらの反応を一つ一つ体験し、解決していく自然な心の営みのことである。この悲哀のプロセスを達成することができない場合、心身の病いや心の狂いが生じる。」悲しむということを通して心が仕事をしている。失われた対象と自らの関係について捉えなおし、なおも対象を求める欲求を断念し、新たな状況を受け入れるための心の整理が行われていく。
 悲哀の仕事は容易なことではなく、心の中でそれがなされている間、ふだんの現実に立ち向かう力がそがれてしまう。社会慣習として「喪」がある。ある期間、遺族は通常の生活慣習から身を引く。一定期間は残された者をできるだけそっとしておいてあげようという配慮が働いている。せわしない現実から撤退するのが自然と考えられているのだ。現実適応力が落ちているという点では、彼らは精神病者にも近い存在だ。だが、もし悲しみがそれにふさわしい形をとっているなら、その間に心は活発に活動し、死者と自らの関係について捉え返すことに集中している。死後、宗教的な儀礼がいくつもなされるのは、心の中のそうした「悲哀の仕事」を助ける意味合いがあるのだろう。
 われわれは、一つ一つの対象喪失体験について、そのたびに「悲哀の仕事」を課せられる。この仕事を一つ一つ達成することなしには、真の心の平安を得ることはできない。……その達成は昔から生老病死といわれる、この人生の中で、心が果すべきもっとも普遍的な究極的課題である。(P.46)

 愛情や依存の対象を失うのはつらい体験だ。愛が満たされないためにつらいだけではなく、自らを責める気持が伴うことも少なくない。生きている間は愛する相手に責めを負わせ、ときには憎む気持が勝ることがあったとする。相手が死ぬと相手のいやだった面が遠くかすんでいき、かけがえのない相手だったと惜しむ気持がまさってくる。それとともに自分の方に責めがあるというくやみの気持に襲われる。生前に対立が露になったり、別れてしまった後に死んでしまった相手の場合、敵意で向き合ったことが相手の苦しみや死の原因になったのではないかと自分を責める気持にとらわれてしまうこともある。こうして罪意識にふさがれてしまうと、なかなか悲しみから抜け出せない状態に陥ってしまう。
 だが、他者の死や喪失による悲しみを通して自らを省みる心理の中には、自らの非を自覚し他者に詫びるとともにそのつぐないをしたいという気持も込められている。強く愛してきた、あるいは慕ってきたからこそ募る憎しみや反感が自覚されることは、そのまま倫理的な反省につながる。罪悪感とともに何とか良い生を送ってつぐないをしたいという気持が起こることもある。また、生前敵対していた相手が死んでしまった場合も、自分が責めたためではないかとの悔恨が生じ、死んだはずの相手への恐れの気持にとらえられることもある。これは日本の民俗宗教で根強い祟りや怨霊の信仰に通じるものである。
 このように「悲哀の仕事」は倫理的な反省や、それを通しての心の成長・成熟をはらんだプロセスである。それは断念を含んでいるが、それによって甘えてきた他者、執着してきた他者から自立し、絆を大切にしつつも心の自由な領域を広げていくことが可能になる。断念する心の作用がある確かさをもってきたときに、悲しむ者は現実からの心の撤退を切り上げることができるようになる。「悲哀の仕事」に余念がなかった心の荒波に打ち克ち、ようやく現実へともどっていくことができるようになる。
 しかし、そうはいってもそれは悲しみがなくなることを意味するものではない。失った対象への思慕の情は残る。むしろ悲しむ能力を保つことこそ成熟の印である。そこに人間の限界の自覚、有限性の自覚が伴う。つまり深く悲しむとき、人は必然的に宗教と紙一重のところに近づいている。「大切なことは、その悲しみや思慕の情を、自然な心によって、いつも体験し、悲しむことのできる能力を身につけることである。」(P.156156ページ)宗教とは悲しむ能力を保持する文化装置とも言えるだろう。
 そして、それはやがて訪れる自ら自身の死に向き合い、それに備えていくことでもある。自ら自身の存在と、環境や他者という世界すべての喪失こそが死だからである。他者との別れ、他者との死という対象喪失に際してひそやかに行われる「悲哀の仕事」は、一生の最後の徹底的な対象喪失である自ら自身の死の準備でもある──フロイト自身もそう考えていたし、小此木はそのことを強調している。

 ところが、現代人はこの大切な「悲哀の仕事」を避け、悲しみから逃げていく傾向があると著者はいう。第六章はそのことに焦点をあてていて、「悲哀排除症候群」と題されている。ここでまず小此木は、「対象喪失は、どんなに人間があがいても、その対象を再生することができないという、人間の絶対的有限性への直面である」という。これは自らの死との直面にまで深められるような厳しい対象喪失の捉え方であり、救済宗教の世界観に通じるような見方だ。
 小此木がこのように、「絶対」に関わるような奥深い事柄として対象喪失を捉えるのは、現代社会が「全能感」にふけっていることの問題性を浮き彫りにしたいためである。「ところが現代社会は、人類のこの有限感覚をわれわれの心から排除してしまった」(P.196)。「全能感に支配された人間には、対象喪失の悲哀は存在しない。かけがえのない絶対に代りのきかない存在は、心から排除されてしまうからである」(同前)。何を失っても人工物によって代替できるという全能感のもとでは、大事な他者の死も自ら自身の死さえも「悲哀の仕事」の機会とならないのかもしれない。
 そしてまたこの動向は、自分にとって苦痛と不安を与える存在は、むしろ積極的に使いすてにし、別の新しい代りを見つけだすほうが便利だし、実際にそうできるという全能感を人びとにひきおこしている。死んで葬り去れば縁がなくなるし、醜く年老いた者は実社会から排除すればよいし、うまくいかなくなった男女は別れて、それぞれ新しい相手を見つければよい。できることならば、学校や職場も気に入らなければ、自由に変えられるほうがよい。(P.196-7)
 人と人との絆を恐れ、自分ひとりの世界を守ろうとする現代人の気質を捉えた言い方だ。それはまた、科学技術に依存することと閉じこもりの関係を示唆するものでもある。「安全」神話に頼ってきた原子力発電所の「村」の人たちは、こうした自己閉塞的な全能感を体現するものではなかっただろうか。
 私たちは東日本大震災で多くの方々のかけがえのないいのちを失い、全能幻想に依拠してきた福島第1原子力発電所の巨大な災害に出会って途方に暮れている。それぞれの場で「悲哀の仕事」がなされている。そしてこの書の「悲哀排除症候群」という言葉が示唆するものに対する反省も、静かに進められているのではないだろうか。



 

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