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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2012年7月 島薗教授おすすめの図書



 安冨 歩 著
 『生きるための論語』ちくま新書 2012年刊


 聖典として尊ばれて来た書物は、人の生き方、考え方について本来的な意義をもつことを教えているだろう。少なくともこれまで多くの人々がそう考えて、聖典を読み解いてきた。だが、あらためて聖典が何を教えているのかを、各自それぞれの場所から捉え直すのは容易なことではない。
 孔子の言葉を記した『論語』もそうした書物のひとつだ。倫理について根本的なことを説いている書物であることは確かだと思っていても、それが何であるのか述べるのは容易でない。専門家といえども読み解くのに大いに苦労する。だが、ここに『論語』を身読してきたひとりの専門家とはいえない学徒がおり、『論語』の説く倫理、あるいは「生きる技法」の核心と捉えたものを示そうとした書物がある。近代中国(満洲)経済を研究してきた経済学者であるとともに、「魂の植民地化」からの脱却を説く独自の思想の提唱者でもある安冨歩氏の『生きるための論語』がそれだ。
 安冨氏によると『論語』の教えの核心には、自覚的に習得することの奨めがある。「学習とは何か」――これが『論語』のキモだという。事実、『論語』冒頭「学而第一」の一節は「小論語」ともよばれ重視されてきたが、「学ぶとは何か」について述べている。岩波文庫の金谷治による読み下しは以下のとおりだ。

子の曰(のたま)わく、学びて時にこれを習う、亦た説(よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来たる、亦た楽しからずや。人知らずして慍(うら)みず、亦た君子ならずや。
 安冨氏はここに伊藤仁齋が「最上至極宇宙第一の書」と呼んだ『論語』の「基本思想が凝縮されている」、「その基礎概念は言うまでもなく「学」と「習」とである」と述べる。倫理の目標は他者と調和して生きていくことでそのためにこそ「学ぶ」必要がある。だが、「学んで思わざれば則ち罔(くら)し、思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し」(為政第二、一五)とあるように、「学」には「罔」の字に表されるように、人を「何かにとらわれて、がんじがらめになって身動きがとれない状態」にしてしまう働きもある。これに対して、著者は自由に向かう過程として「学」から「習」への展開を想定する。では「習」とはどういうことか。
 著者は『論語』の他の用法を参照しながら、「習」とは「身につく」ことだという。しっかり飲み込めて我がものになる、そういう学び取りを指すのだという。そう理解すると「学而時習之。不亦説乎」はこう訳されることとなる――「何かを学んで、それがあるときハタと理解できて、しっかり身につくことは、よろこびではないか。」つまり、「学」の段階では、受け取ったものがまだ我がものになっておらず、囚われたところがあるのだが、「習」の段階では受け取ったものが「完全に身体化され」、細部に至るまで「無意識化され」て使いこなせるようになり、そこで「逆に全体が意識化され、『ああこれか』とわかる」ようになる。そこで「不必要なもの、余計なものは解除され」、「呪縛から抜け出す」。だから「喜びを感ずる」のだという。p.19-20
 この理解にそって、「小論語」のその後の言葉も解釈していくと「有朋自遠方来。不亦楽乎。人不知不慍。不亦君子乎。」は次のように訳すことができるという。

それはまるで、旧友が、遠方から突然訪ねてきてくれたような、そういう楽しさではないか。そのよろこびを知らない人を見ても、心を波立たせないでいる。それこそ君子ではないか。
 このような態度でつねに「学」び「習」おうとしている人が「君子」であり、そのような「君子が社会の中枢を担っていることが、社会秩序形成の基礎である」。孔子はそのような社会ビジョンをもっていた。「君子の徳は風で、小人の徳は草である。草の上に風が吹けば、必ずやなびく」(顔淵第十二、一九)とあるとおりだ。『論語』とは「学習に基づいた社会秩序」という思想を、最も早く明瞭に表現した書物であると著者は捉える。

これが儒家の言う「徳」による統治であり、その場合には人の振る舞いが「礼」に適っている。そういう徳が満ちている状態が「仁」である。あるいはまた、そのような学習過程が開いた個人の状態をも「仁」という。仁者は心がいつも安定しており、自分自身であることを失わない。それが「忠恕」であり、そういう人の発する言葉は、その人の心から乖離しない。その状態を「信」という。p.27
 著者が「学習」ということに特別重い意味を付与していることが分かるが、その真意を理解するには、続いて論じられる「知」についての解説もじっくり読まなくてはならない。
曰く、由(ゆう)や、女(なんじ)に之を知るを誨(おし)えんか。之を知るを知ると為し、知らざるは知らざると為す、是れ知るなり。(為政第二、一七)
 著者はこれは認識内容とその限界がともに分かってくること、つまり(知/不知)の区別が新たに自覚されることであり、「知」の創出が進んで行く動的な過程を示すものだという。ここには自分自身が変化していく過程とその自覚化があり、それにより明晰な自己認識が得られるのだ。自己のモニタリングp.57(フィードバック)により、誤りを修正していく態度でもある。「学習」とは自己自身とその限界を知ることであり、そこに自覚の根があるので、どんなものに向き合っても動揺することはないのだという。
 このような読みにそって、ふつう『論語』の倫理的教えの主要な徳目とされている用語を見直していくと、それらの用語が新たな輝きを帯びて見えてくる。たとえば、「忠」は主従関係での忠誠、あるいは他者の意志を尊重して背かないようにすることという意味ではなく、「たとえ君主を相手にしても、自分の心を偽らないことが忠である」p.60とされる。また、ふつう思いやりを意味すると解される「恕」は「ある状況のなかに魂を開いて自らの身体を置き、そのときの自分の感覚の与える意味を鋭敏に読み解くこと」p.69と解される。
 「忠恕」「忠信」といった用語の説明を通して、著者が示そうとするのは、『論語』の根幹には自己に忠実であるべしとの教えがあるということだ。「巧言令色、鮮なし仁」(学而第一、三)、「剛毅木訥は仁に近し」(子路第十三、二七)などで直観的に分かる気がすることだが、「克己復礼」についての著者の説明を読むとさらに理解が深まるだろう。
 顔淵、仁を問う。子曰く、己を克して禮に復す、仁と為す。(顔淵第十二、一)
 この一節について、これは自己否定を意味するのではなく、「自分自身の認めたくない記憶と向き合い、恥じて、悲しみ、乗り越える」プロセス、「己を彫り刻むようなつらさを伴う」自己変革のプロセスなのだという。

  とすれば「克己復禮、為仁」とは、自分が無意識にしてしまった間違った行為を恥じ、自分自身のあり方に向き合い、己の魂の隠された傷を明らかにし、悲しみ、さらにそれを乗り越えることで、礼にかなった振る舞いができるようになる、こうすることが仁だ、という意味と解釈できる。p.81
 このように『論語』の教えを学習による自己変革、そして自己認識の深化による自由の拡充、ひいては「魂の脱植民地化」と捉えるとすれば、孔子の掲げる最高の徳である「仁」はどのように捉えられるのだろうか。「子曰く、仁遠からんや。我仁を欲すれば、斯(すなわ)ち仁至る」(述而第七、二九)について、著者は「「仁」を学習過程として理解すれば、この章を理解するのは難しくない」という。
  己の魂の動きの、仁なるものと、不仁なるものを峻別する、その峻別ができたとき、己の不仁を改める回路が作動し始める。それと同時に、新たに仁とはなにかという問いが作動する。この過程が作動すればすなわち仁である。p.166
 「仁」とは選択を行うための規準なのではない。むしろ自ずから「道」をはずれずに歩んでいこうとする態度の中に「仁」はある。「学習過程」において自己に忠実であることが基本であるから、「和」や「礼」もそのような「学習過程」の自ずからなる帰結と見なされる。たとえば、「子曰く、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(子路第十三、二三)は次のように理解される。
 自らの心を閉ざし、学習回路を停止している小人同士の「同」のなかで、表面的な礼儀作法をいくらやっても、「礼」は実現されない。仁の力により、人々の学習過程が作動するとき、真の秩序が達成される。そこでとり結ばれるコミュニケーションは、「礼」にかなっている。p.103
 著者の理解では、仁・忠・恕・道・義・和・礼は相互に関連しあっているとして「論語の基礎概念系列」と呼ばれる。

 「仁」は学習過程が開かれていることであり、「忠」はそのときに達成されている自分自身の感覚への信頼を表現する。そのとき他者との関係性において自分自身のあるがままである状態が貫かれており、これを「心の如し」という意味で「恕」という。この状態にある人は、自らの進むべき「道」を見出し、そこを進むことができる。この道をたどっている状態で出逢う出来事において為すべきことが「義」である。「仁」の状態にある者同士の、調和のとれた相互作用が「和」であり、そのときに両者の間で交わされるメッセージのあり方を「礼」という。p.111
 このように自己の感覚に正直に、つねに「不仁」を悪み学習過程を重ねていく、そのような道を歩むことが孔子の教えだと著者は論じる。「それゆえ、君子の交わりは、相互に考えが一致しているかどうかなど問わず、むしろその相違を原動力として進む。こうした相互の違いを尊重する動的な調和を「和」という」p.104。したがって、まずは目上の者に従うといった態度は、『論語』本来のものではないとされる。「「孝」というのは、親子関係が親密であって本当に慈愛に満ちているときに生じる、子供の自然な親への感情のことである」p.155。
 著者の『論語』理解は、上下長幼の階層的な秩序を重んじるものと理解された儒教のあり方とは大いに異なる。そこに少し無理があるのではないかと疑ってみることもできるだろう。また、著者の提示する「学習過程」は、認知する個人を出発点に置く人間理解に即したものであるため、他者との関係や共同性をどう理解するのか、疑問が残らないわけではない。孔子理解、『論語』理解という点からも、現代人の自己理解という点からも、ここはなお著者に尋ねてみたいところだ。
 だが、『論語』のそこここに、このように理解できる倫理の方向性が示されているのは確かだろう。著者は『論語』のそうした側面を、現代情報学(サイバネティックス)の創始者の一人であるノーバート・ウィーナーや、現代的な非暴力思想の地平を切り拓いたマハトマ・ガンジーや、独自の現代経営思想を提示したピーター・ドラッカーに引き比べてもいる。これらは刺激的な論点を提示するものであり、自らの問題意識に引き寄せて読めるという利点もある。とにかく、聖典、古典を新たに読み直したいという意欲をかき立てる書物である。

 

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