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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2012年9月 島薗教授おすすめの図書



 レイチェル・カーソン 著
 『沈黙の春−生と死の妙薬』(青樹簗一訳) 新潮文庫
                 1974年刊(初刊 1964年、原著 1962年)


 1907年生まれの著者は動物学を学び、アメリカ合衆国漁業局に勤務した後、45歳で公職を退き文筆家となった。この著書を著して2年後に亡くなったから著述家としての人生は短かったが、この名著の著者として広く知られている。科学者が広い視野から、自然と人間の関わりにつき深い洞察をもった著作を著す。このうらやましい伝統がアメリカにはある。50年経った現在も一般読者が読んでおもしろく、科学知識に親しめ、かつ自らの生き方や考え方を振り返るための示唆に富んでいる。環境倫理の古典だが、また現代文明への鋭い批評の書でもある。
 ただ、文庫版解説の筑波常治も述べているように、この題は日本語では少々分かりにくいかもしれない。筑波は「ものみな萌えいずる春」という日本語を引き合いに出して、「ものみな死に絶えし春」という句を示している。これは第一章に「明日のための寓話」として記されている内容の要約としてぴったりだ。書き出しはこうだ。
アメリカの奥深くわけ入ったところに、ある町があった。生命あるものはみな、自然と一つだった。町のまわりには、豊かな田畑が碁盤の目のようにひろがり、穀物畑の続くその先は丘がもりあがり、斜面には果樹がしげっていた。春がくると、緑の野原のかなたに、白い花のかすみがたなびき、秋になれば、カシやカエデやカバが燃えるような紅葉のあやを織りなし、松の緑に映えて目に痛い。丘の森からキツネの吠え声がきこえ、シカが野原のもやのなかを見えつかくれつ音もなく駆け抜けた。11ページ
 四季折々の花、鳥は人の目を楽しませ、澄んだ川には魚が泳ぎ釣りにくる人もいた。ここにはじめて人がやってきて家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を建てたときから、こんな光景は続いてきた。
ところが、あるときどういう呪いをうけたわけか、暗い影があたりにしのびよった。いままで見たこともきいたこともないことが起りだした。若鶏はわけのわからぬ病気にかかり、牛も羊も病気になって死んだ。どこへ行っても、死の影。農夫たちは、どこのだれが病気になったというはなしでもちきり。町の医者は、見たこともない病気があとからあとへと出てくるのに、とまどうばかり。そのうち、突然死ぬ人も出てきた。何が原因か、わからない、大人だけではない。子どもも死んだ。(中略)
自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。(中略)ああ鳥がいた、と思っても、死にかけていた。ぶるぶるからだをふるわせ、飛ぶこともできなかった。春がきたが、沈黙の春だった。12ページ
 これは「寓話」なので、実際にこんなことが起こっているわけではない。だが、確かにさまざまな生き物が大量に死んだり、人為により大幅に形を変えたりしている。人間が化学薬品や放射線を使って自然を変えてしまう。20世紀に入ってから、わずかの間に人間は愚かな自然改造を試み、「沈黙の春」、「ものみな死に絶えし春」をもたらそうとしている。
この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という二つのものが、たがいに力を及ぼしあいながら、生命の歴史を織りなしてきた。といっても、たいてい環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力は、ごく小さなものにすぎない。だが、20世紀というわずかのあいだに、人間という一族が、おそるべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。
ただ自然の秩序をかきみだすのではない。いままでにない新しい力――質の違う暴力で自然が破壊されてゆく。ここ25年の動きを見れば、そう言わざるをえない。たとえば、自然の汚染。空気、大地、河川、海洋みんなおそろしい、死そのものにつながる毒によごれている。
 この汚染と毒をもらたした「新しい力」とはまず「放射能を考えるが、化学薬品は、放射能にまさるとも劣らぬ災いをもたらして、万象そのもの――生命の核そのものを変えようとしている。」
核実験で空中にまいあがったストロンチウム90は、やがて雨やほこりにまじって降下し、土壌に入りこみ、草や穀物に付着し、そのうち人体の骨に入りこんで、その人間が死ぬまでついてまわる。だが、化学薬品もそれにまさるとも劣らぬ災いをもたらすのだ。畑、森林、庭園にまきたらされた化学薬品は、放射能と同じようにいつまでも消え去らず、やがて生物の体内に入って、中毒と死の連鎖をひき起してゆく。14-15ページ
 カーソンが焦点を当てるのは化学薬品、とりわけ殺虫剤や除草剤だ。第三章の表題でカーソンはそれを「死の霊薬」とよぶ。「考えてみれば、化学薬品が使われ出してから、まだ20年にしかならない。それなのに、合成殺虫剤は生物界、無生物界をとわず、いたるところに進出し、いまでは化学薬品によごれていないもの、よごれていないところなど、ほとんどない。」25ページ
 どうしてこんな負担を背負うことになったのか。第二章「負担は耐えなければならぬ」では、この不条理にどう向き合えばよいのかと問うている。具体的な方策については最後に近い章で述べている。化学薬品すべてを止めようというのではない。自然の秩序に合致した賢い使い方をしなくてはならないというのだ。第二章ではその土台として「知ること」の意義について述べている。
土壌、水、野生生物、そしてさらには人間そのものに、こうした化学薬品がどういう影響をあたえるのか、ほとんど調べもしないで、化学薬品を使わせたのだった。これから生れてくる子供たち、そのまた子供たちは、何と言うだろうか。生命の支柱である自然の世界の安全を私たちが十分知らなかったことを、非難してやまないだろう。
どんなおそろしいことになるのか、危険に目覚めている人の数は本当に少ない。そしていまは専門分化の時代だ。みんな自分の狭い専門の枠ばかりに首をつっこんで、全体がどうなるのか気がつかない。いやわざと考えようとしない人もいる。またいまは工業の時代だ。とにかく金をもうけることが、神聖な不文律になっているのだ。殺虫剤の被害が目に見えてあらわれて住民が騒ぎだしても、まやかしの鎮痛剤をのまされるのがおちだ。
 「いまのままでいいのか」。そうでないとすれば、まずは事態を的確につかまなくてはならない。著者は、ジャン・ロスタンの言葉を借りて言う。《負担は耐えねばならぬとすれば、私たちには知る権利がある》。24ページ
 第四章から第十二章へと、著者はまずは化学薬品について述べ、次いで環境と生物の種類を分けて汚染の実例を順に示していく。土壌、植物、虫や獣、鳥、川の生物、そして人間だ。その紹介は略す。その上で、著者は化学薬品はどのように生命を脅かすのか。第十三章「狭き窓より」、第十四章「四人にひとり」で、化学薬品がどのように健康に作用するのかについての科学的知見を紹介している。化学薬品は生命作用の根源に害を及ぼす、とりわけ生殖細胞と染色体や遺伝子への悪作用が懸念される。
人類全体を考えたときに、個人の生命よりもはるかに大切な財産は、遺伝子であり、それによって私たちは過去と未来とにつながっている。長い長い年月をかけて進化してきた遺伝子のおかげで、私たちはいまこうした姿をしているばかりでなく、そお微小な遺伝子には、よかれ悪しかれ私たちの未来すべてがひそんでいる。とはいえ、いまでは人工的に遺伝がゆがめられてしまう。まさに、現代の脅威といっていい。《私たちの文明をおびやかす最後にして最大の危険》なのだ。
ここでまだ化学薬品と放射線が肩をならべあう。この両者の平行関係を無視するわけにはいかない。234ページ
 人間の健康が根本から損なわれてしまうだけではない。化学薬品によって人間が克服したはずの自然がかえってさらに人間を脅かす働きを示すようになる。ある生物種を駆除すれば生態系が変化するから、他の生物種にもさまざまな影響が及ぶ。その結果、別の克服困難な害が起こることもある(第十四章「自然は逆襲する」)。また、退治したはずの虫がさらに耐性を強めてくることもある。これこそダーウィンの進化論の理にかなったことだ(第十五章「迫り来る雪崩」)。
 こうした問題になかなか注意が向けられなかった。環境と生物の関係に注目する必要があることに気づく優秀な科学者がいなかったわけではない。だが、彼らは少数者に止まった。化学的殺虫剤研究に携わる者がはるかに多かった。「どうしてまた、こんなことになっているのか。理由は簡単だ。化学工業の大会社が大学に金をつぎこむ。殺虫剤研究の資金を出すからなのだ。ドクター・コースの学生たちにはたっぷり奨学金があたえられ、魅力のある就職口がかれらを待ちうけている」257ページ。今も状況は変わらない。
 異なる道を見出さなくてはならない。すでにそのような試みは始められている。虫の害を抑えるにしても自然の均衡(バランス)を傷つけずにそうすることだ。
カナダの昆虫学者であるアルエットは、自分の人生観をいまから10年ばかりまえこのようにあらわした――《私たちは、考えをかえなければならない。人間がいちばん偉いのだ、という態度を捨て去るべきだ。自然環境そのもののなかに、生物の個体数を制限する道があり手段がある場合が多いことを知らなければならない。そしてそれは人間が手を下すよりもはるかにむだなく行われている。》291ページ
 また、DDTがいかに害虫除去の手段として不適切であるかを示した、デンマークのブリーイエ博士はこう述べている。
暴力をふるうのではなく、できるだけ注意して自然のいとなみを人間の都合のよいように導くことこそ、私たちの目的でなければならない……。
私たちは心をもっと高いところに向けるとともに、深い洞察力をもたなければならない。残念ながら、これをあわせもつ研究者は数少ない。生命とは、私たちの理解をこえる奇跡であり、それと格闘する羽目になっても、尊敬の念だけは失ってはならない……生命をコントロールしようと殺虫剤のような武器に訴えるのは、まだ自然をよく知らないためだと言いたい。自然の力をうまく利用すれば、暴力などふるうまでもない。必要なのは謙虚な心であり、科学者のうぬぼれの入る余地などは、ここにはないと言ってよい。307ページ
 最後の第十七章「べつの道」では、こうした考え方が一つの思想にまとめ上げられている。その要点を示すには次の箇所を引くのがよいだろう。
私たちの住んでいる地球は自分たち人間のものではない――この考えから出発する新しい、夢豊かな、創造的な努力には、《自分たちの扱っている相手は、生命あるものなのだ》という認識が終始光りかがやいている。生きている集団、押したり押しもどされたりする力関係、波のうねりのような高まりと引き――このような世界を私たちは相手にしている。昆虫と私たち人間の世界が納得しあい和解するのを望むならば、さまざまの生命力を無視することなく、うまく導いて、私たち人間にさからわないようにするほかない。
人におくれをとるまいと、やたらに、毒薬をふりまいたあげく、現代人は根源的なものに思いをひそめることができなくなってしまった。こん棒をやたらにふりまわした洞穴時代の人間にくらべて少しも進歩せず、近代人は化学薬品を雨あられと生命あるものにあびせかけた。精密でもろい生命も、また奇跡的に少しのことではへこたれず、もりかえしてきて、思いをよらぬ逆襲を試みる。生命にひそむ、この不思議な力など、化学薬品をふりまく人間は考えてもみない。《高きに心を向けることなく自己満足におちいり》、巨大な自然の力にへりくだることなく、ただ自然をもてあそんでいる。332ページ
 本書が出版されてから今年で50年だ。この間、ここで示されたような自然観にそってエコロジー的な知が展開してきた。さて、では現代における自然と科学と人間の関係は全体としてどうなっているだろうか。人類はこの50年の間、著者が述べたことに十分に耳を傾けてきたと言えるだろうか。
本書を読み返して感じたことだが、2011年3月11日の災害を通して日本人が学びつつあることと、本書で著者が述べていることの間に多くの重なり合いがある。カーソンに学ぶべきことが少なくない。私たちの「科学」はまだまだ「自然をもてあそぶ」あり方から遠ざかることができないでいる。

 

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