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倫理良書レビュー

倫理良書レビュー 2012年10月 島薗教授おすすめの図書



 竹内 好 著
 『魯迅』 講談社文芸文庫 1994年刊(初刊 1944年)


 「阿Q正伝」「狂人日記」「藤野先生」などの作品で知られる魯迅(1881-1936)は、単に中国近代文学の代表的作家であるに止まらない。魯迅の生きる姿勢(作品そのものが示す生きる姿勢)に人を魅了して止まないものがある。現代中国、現代東アジアに生きる者が自らの位置を捉え返す際にも重要なてがかりを示してくれる存在と言ってもよいだろう。
 東大で近代中国文学を教えている藤井省三は、その著『魯迅』(岩波新書、2011年)の冒頭で、「現代中国は、魯迅文学を抜きにしては語れません。そして日本や東アジアの現代も、魯迅文学を座標軸として展望しますと、その個性と共通性とがよく見えてくるものなのです」(iページ)と述べている。
 藤井によると作家の村上春樹は「阿Q正伝」に深い影響を受け、1982年に「Q氏」が登場する短編小説を書いており、「その後もQ氏の兄弟たちを描き続けている」という。その村上春樹は「阿Q正伝」をこう紹介しているという。
作者が自分のまったく違う阿Qという人間の姿をぴったりと描ききることによって、そこに魯迅自身の苦しみや哀しみが浮かび上がってくるという構図になっています。その二重性が作品に深い奥行きを与えています。(藤井著、232ページ)
 では、「阿Q正伝」とはどのような作品なのか。藤井による紹介を引かせてもらう。
そもそも「阿Q正伝」とは、清朝「ラストエンペラー」期の未荘(ウェイチュワン)という村の日雇い農民阿Qを主人公とする短編小説である。村中の人からいじめられ笑いものにされても、「我こそは自らを軽蔑できる第一人者」などと屁理屈をこねては自己満足していた阿Qは、清朝打倒の辛亥革命(1911)の噂にあわてふためく地主たちを見て革命党に憧れるが、未荘では日本留学帰りの地主の若旦那らがさっさと革命党を組織してしまい出る幕もない。やがて趙家で起きた強盗事件の犯人として逮捕され法廷に引き出され、本人も訳も分からぬうちに銃殺されてしまい、未荘の人々はこれを楽しげに見物するのである。
魯迅はこの作品で、自らの屈辱と敗北をさらなる弱者に転嫁して自己満足する阿Q式「精神勝利法」をペーソスたっぷりに描いて中国人の国民性を批判するとともに、草の根の民衆が変わらぬ限り革命はあり得ないとする国家論を語ったといえよう。(同、233-234ページ)
 「阿Q正伝」という作品に代表される魯迅、すなわち言葉を通して行動する者としての魯迅の姿勢や身の処し方、これは短い語で名づけにくいものであるが、「倫理」、「思想」、「文学」などの言葉でおおよそ捉えることができるかもしれない。だが、魯迅という人物が確かにそこにいるというその場所が何かについて、多くの論者はある程度一致しているようだ。では、その場所を最初に指し示したのは誰か。それは竹内好(1910-77)だと、現代中国の文学・思想研究者、孫歌(中国社会科学院文学研究所)は確言している(『竹内好という問い』岩波書店、2005年)。
魯迅研究の記念碑的著作として、『魯迅』は全世界の魯迅研究者の必読書となっている。そこに提示された傑出した分析と非凡な結論は、日本と中国のその後の魯迅研究者に影響を与え、例えば魯迅における生死の観念や虚妄の観念をめぐる分析、あるいは魯迅研究の非イデオロギー化に向けた意味内容等々は、後世のものに直接、または間接的に、偶像魯迅から抜け出すための可能性を示唆してくれる。(30ページ)
 その竹内好『魯迅』は1944年に刊行されているが、脱稿して三週間後に召集令状を受け取り中国に出征している。すでに1932年、37-39年の二度、中国に滞在の機会があった。二度目は魯迅の死の直後だった。『魯迅』の冒頭部で、竹内は魯迅の死についてこう述べている。
十月十九日未明、彼は死んだが、死の瞬間においても彼は文壇の少数派であった。彼は死ぬまで頑強に自己を守ったのである。この時の彼と多数派との対立は、彼の死によって無意味化された、と云うよりもむしろ、彼の死がその無意味な対立を救い、そのことによって、生前啓蒙主義者としての彼の何よりも欲したであろう、かつ文学者としての気質がそれに背いたであろう文壇の統一が、彼の死後に実現を見た。(7ページ)
 竹内は魯迅を「殉教者」ともよぶのだが、それは彼が死を覚悟しながら、一つの譲れない姿勢を貫いたことを指す。竹内はその姿勢を直観しているが、それは単純な熟語で示したり平明に説明できるようなものではないと信じている。だから竹内の『魯迅』も必ずしも明快な書とはいえない。それでも竹内が説明しようと骨を折っているのは確かであり、それは総体としてまことに力強い説得力のあるものとなっている。
 あえてその魯迅ならではの「姿勢」を短い熟語で示そうとする時には、「文学」とか「孤独」とか「贖罪」といった用語が用いられている。
論争のない文壇を現出させたものは、彼の死である。死は魯迅にとって、肉体の静謐さだけでなかった。(中略)彼は論争を通じて、何物かを得ていったのである。あるいは、何物かを棄てていったのである。窮極の静謐さを求めずして出来る業ではない。論争は魯迅にとって「生涯の道の草」であった。(中略)「私は牛のようなものだ。食うのは草で、搾り出すのは乳と血だ。」乳と血を搾り取ったのは青年たちである。彼らはただ、身近すぎて牛を忘れていた。牛が身を横たえて動かなくなったとき、愕然として牛を意識した。今まで魯迅の名で呼んでいたものが、実は彼ら自身であることに気がついた。魯迅にとって、死は彼の文学の完成である。しかし青年たちは、はじめて自己の孤独を知った。(8ページ)
 魯迅は仙台医学専門学校(後の東北帝国大学医学部)に留学し、医学を通して中国の民衆を救いたいと考えた。文学に転じてからも、人々のために役立つことを忘れたわけではない。だから論争も徹底的に行ったのだが、それは啓蒙家、思想家としての魯迅だ。だが、竹内が語ろうとするのは、そのような見えやすい社会的存在としての魯迅の背後にある孤独であり、生きる姿勢(倫理)の根となるものであり、それが魯迅の「文学者」としての真実だと竹内は捉えている。
私は、魯迅の文学をある本源的な自覚、適当な言葉を欠くが強いて云えば、宗教的な罪の自覚に近いものの上に置こうとする立場に立っている。魯迅にはたしかに、そのような止みがたいものがあったことを私は感ずる。魯迅は、一般に支那人がそうであると云われるような意味では宗教的ではない、むしろ、甚だしく無宗教的である。この「宗教的」という言葉は曖昧だが、魯迅がエトスの形で把えていたものは無宗教的であるが、むしろ反宗教的でさえあるが、その把持の仕方は宗教的であった、という風の意味である。(中略)彼は先覚者でなかったように、殉教者でもなかった。しかし、その現れ方は、私には殉教者的に見える。魯迅の根柢にあるものは、ある何者かに対する贖罪の気持でなかったと私は想像する。何者に対してであるかは、魯迅もはっきりとは意識しなかったろう。(11-12ページ)
 竹内の言わんとするところを私なりに解説しよう。「阿Q正伝」の主人公の悲しみを作者は突き放すように描きつつ、それを自らのこととして受け止めていないわけはない。阿Qの隷属と屈辱を克服すべく魯迅は闘うだろう。啓蒙家としての魯迅だ。だが、それでも悲しみが癒されるわけではないし、内心の苦闘が解決されたわけではない。死を媒介せずに癒しはないのではないか。
人は生きねばならぬ。魯迅はそれを概念として考えたのではない。文学者として、殉教者的に生きたのである。その生きる過程のある時期において、生きねばならぬことのゆえに、人は死なねばならぬと彼は考えたと私は想像するのである。それは、いわば文学的正覚であって、宗教的な諦念ではないが、そこへ到るパトスの現れ方は宗教的である。つまり説明されていないのである。窮極の行為の型として魯迅が死を考えたかどうか、前に述べた如く私には疑問であるが、彼が好んだ「そう扎」(「そう」は手偏に爭)という言葉が示す激しい悽愴な生き方は、一方の極に自由意志的な死を置かなければ私には理解できない。(12-13ページ)
 この「そう扎」という語について、竹内は後に「自註」を付してこう説明している。「そう扎cheng-chaという中国語は、がまんする、堪える、もがくなどの意味をもっている。魯迅精神を解く手がかりとして重要だと思うので、原語のまま、しばしば引用してある。強いて日本語に訳せば今日の用語法で「抵抗」というのに近い」(195ページ)。
 この「そう扎」が何を意味するかを理解するには「藤野先生」と、それについての竹内の論及を参照するのがよいだろう。この短い作品は日本語がまだ巧みではない魯迅を親身になって指導してくれた解剖学の教員への敬愛を語りつつ、留学生としての苦難の経験をさりげなく回想したものだ。
 竹内はこう論じる。「魯迅が、仙台の医学校で、日露戦争の幻灯を見て志を文学に立てたという話は、あまねく人口に膾炙している。これは彼の伝説かされた一例であって、私はその真実性に疑いを抱く」(72ページ)。幻灯が映し出す中国人、見せしめにされる同胞を「見物している」中国人の姿に衝撃を受けた。
愚弱な国民は、体格がいかに健全であろうとも、いかに長生きしようとも、結局何の意義もない見せしめの材料と見物人になるだけではないか。病死の多少など必ずしも不幸とは云えぬのだ。されば、われわれの第一要著(ようちゃく)は、彼らの精神を改変するにある。そして精神の改変に有用なものは、当時の私の考えでは、当然文芸を推さねばならなかった。
 「阿Q正伝」などの短編を集めた最初の作品集『吶喊』の自序ではそう述べている(73-74ページ)。これは啓蒙家、思想家としての魯迅の言葉だ。だが、「藤野先生」には幻灯事件の前にもう一つの事件があったことが記されている。「それは、藤野先生が彼のノオトを直してくれたことから、一部の同級生が試験問題を漏らしたのではないかと邪推し、いやがらせをやる事件である」(76ページ)。この「嫌がらせ事件」なる屈辱の体験を踏まえれば、「幻灯事件」も異なる見え方をする。
彼は幻灯の画面に、同胞のみじめさを見ただけでなく、そのみじめさにおいて彼自身を見たのである。それは、どういうことか。つまり彼は、同胞の精神的貧困を文学で救済するなどという景気のいい志望を抱いて仙台を去ったのではない。恐らく屈辱を噛むようにして彼は仙台を後にしたと私は思う。(中略)屈辱は、何よりも彼自身の屈辱であった。同胞を憐むよりも、同胞を憐むことが、彼の孤独感につながる一つの道標となったままである。幻灯事件が彼の文学志望と関係があるとすれば、そしてそれは確かに関係のないことではないが、幻灯事件そのものが、彼の回心を意味するものでなく、彼の得た屈辱感が、彼の回心の軸を形成するさまざまの要素の一つに加わったろうということである。」(77-78ページ)
 「回心」という語で示されている事柄を、竹内は「無」の根底的な自覚(自註12ではこうした難解な哲学的表現を「思想的な貧しさのあらわれ」とする)とも言っている。それは屈辱を「噛みしめる」ところに生じるものだろう。「阿Q正伝」をそのような「回心」の表現として読む。魯迅を師とよぶ竹内が切り拓いた倫理的なビジョンの地平を理解する一つの手がかりがそのあたりにありそうだ。
 

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