倫理良書レビュー 2012年10月 島薗教授おすすめの図書
作者が自分のまったく違う阿Qという人間の姿をぴったりと描ききることによって、そこに魯迅自身の苦しみや哀しみが浮かび上がってくるという構図になっています。その二重性が作品に深い奥行きを与えています。(藤井著、232ページ)
そもそも「阿Q正伝」とは、清朝「ラストエンペラー」期の未荘(ウェイチュワン)という村の日雇い農民阿Qを主人公とする短編小説である。村中の人からいじめられ笑いものにされても、「我こそは自らを軽蔑できる第一人者」などと屁理屈をこねては自己満足していた阿Qは、清朝打倒の辛亥革命(1911)の噂にあわてふためく地主たちを見て革命党に憧れるが、未荘では日本留学帰りの地主の若旦那らがさっさと革命党を組織してしまい出る幕もない。やがて趙家で起きた強盗事件の犯人として逮捕され法廷に引き出され、本人も訳も分からぬうちに銃殺されてしまい、未荘の人々はこれを楽しげに見物するのである。 魯迅はこの作品で、自らの屈辱と敗北をさらなる弱者に転嫁して自己満足する阿Q式「精神勝利法」をペーソスたっぷりに描いて中国人の国民性を批判するとともに、草の根の民衆が変わらぬ限り革命はあり得ないとする国家論を語ったといえよう。(同、233-234ページ)
魯迅研究の記念碑的著作として、『魯迅』は全世界の魯迅研究者の必読書となっている。そこに提示された傑出した分析と非凡な結論は、日本と中国のその後の魯迅研究者に影響を与え、例えば魯迅における生死の観念や虚妄の観念をめぐる分析、あるいは魯迅研究の非イデオロギー化に向けた意味内容等々は、後世のものに直接、または間接的に、偶像魯迅から抜け出すための可能性を示唆してくれる。(30ページ)
十月十九日未明、彼は死んだが、死の瞬間においても彼は文壇の少数派であった。彼は死ぬまで頑強に自己を守ったのである。この時の彼と多数派との対立は、彼の死によって無意味化された、と云うよりもむしろ、彼の死がその無意味な対立を救い、そのことによって、生前啓蒙主義者としての彼の何よりも欲したであろう、かつ文学者としての気質がそれに背いたであろう文壇の統一が、彼の死後に実現を見た。(7ページ)
論争のない文壇を現出させたものは、彼の死である。死は魯迅にとって、肉体の静謐さだけでなかった。(中略)彼は論争を通じて、何物かを得ていったのである。あるいは、何物かを棄てていったのである。窮極の静謐さを求めずして出来る業ではない。論争は魯迅にとって「生涯の道の草」であった。(中略)「私は牛のようなものだ。食うのは草で、搾り出すのは乳と血だ。」乳と血を搾り取ったのは青年たちである。彼らはただ、身近すぎて牛を忘れていた。牛が身を横たえて動かなくなったとき、愕然として牛を意識した。今まで魯迅の名で呼んでいたものが、実は彼ら自身であることに気がついた。魯迅にとって、死は彼の文学の完成である。しかし青年たちは、はじめて自己の孤独を知った。(8ページ)
私は、魯迅の文学をある本源的な自覚、適当な言葉を欠くが強いて云えば、宗教的な罪の自覚に近いものの上に置こうとする立場に立っている。魯迅にはたしかに、そのような止みがたいものがあったことを私は感ずる。魯迅は、一般に支那人がそうであると云われるような意味では宗教的ではない、むしろ、甚だしく無宗教的である。この「宗教的」という言葉は曖昧だが、魯迅がエトスの形で把えていたものは無宗教的であるが、むしろ反宗教的でさえあるが、その把持の仕方は宗教的であった、という風の意味である。(中略)彼は先覚者でなかったように、殉教者でもなかった。しかし、その現れ方は、私には殉教者的に見える。魯迅の根柢にあるものは、ある何者かに対する贖罪の気持でなかったと私は想像する。何者に対してであるかは、魯迅もはっきりとは意識しなかったろう。(11-12ページ)
人は生きねばならぬ。魯迅はそれを概念として考えたのではない。文学者として、殉教者的に生きたのである。その生きる過程のある時期において、生きねばならぬことのゆえに、人は死なねばならぬと彼は考えたと私は想像するのである。それは、いわば文学的正覚であって、宗教的な諦念ではないが、そこへ到るパトスの現れ方は宗教的である。つまり説明されていないのである。窮極の行為の型として魯迅が死を考えたかどうか、前に述べた如く私には疑問であるが、彼が好んだ「そう扎」(「そう」は手偏に爭)という言葉が示す激しい悽愴な生き方は、一方の極に自由意志的な死を置かなければ私には理解できない。(12-13ページ)
愚弱な国民は、体格がいかに健全であろうとも、いかに長生きしようとも、結局何の意義もない見せしめの材料と見物人になるだけではないか。病死の多少など必ずしも不幸とは云えぬのだ。されば、われわれの第一要著(ようちゃく)は、彼らの精神を改変するにある。そして精神の改変に有用なものは、当時の私の考えでは、当然文芸を推さねばならなかった。
彼は幻灯の画面に、同胞のみじめさを見ただけでなく、そのみじめさにおいて彼自身を見たのである。それは、どういうことか。つまり彼は、同胞の精神的貧困を文学で救済するなどという景気のいい志望を抱いて仙台を去ったのではない。恐らく屈辱を噛むようにして彼は仙台を後にしたと私は思う。(中略)屈辱は、何よりも彼自身の屈辱であった。同胞を憐むよりも、同胞を憐むことが、彼の孤独感につながる一つの道標となったままである。幻灯事件が彼の文学志望と関係があるとすれば、そしてそれは確かに関係のないことではないが、幻灯事件そのものが、彼の回心を意味するものでなく、彼の得た屈辱感が、彼の回心の軸を形成するさまざまの要素の一つに加わったろうということである。」(77-78ページ)
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