倫理良書レビュー 2013年9月 島薗教授おすすめの図書



 高杉一郎 著
  『極光のかげに−シベリア俘虜記』
        岩波文庫 1991年、初刊 1950年



 アジア太平洋戦争が終わって後、4年間にわたってシベリアに抑留された著者が、その経験を記した書物だ。スターリン時代のソ連の収容所に抑留された日本人は、一日も早い帰還を望みながら過酷な俘虜の境遇を生き延びなくてはならなかった。シベリアの厳しい自然の中での過重な労役の過酷さに、イデオロギーが支配する権威主義的な秩序に従うことを強いられ、自由な思考を制限され屈辱に耐えて生きていくという精神状況の過酷さが重なった。その中で、自由な思考と行為の余地がどのような形で残されていたか。この書物はそのことを示していて、倫理的な問いが基調をなしている。
 著者の高杉一郎(1908-2008)は大学で英文学を学び、改造社という出版社に勤めていたが、1944年8月に召集された。その改造社は戦争遂行に協力的でないという理由で解散させられたばかりだったから、まったく収入のあてのない妻と小さな子ども3人をあとに残しての従軍だった。1兵士として中国東北部で1年間の訓練を受け、45年8月ハルピンで終戦を迎えた。直ちにソ連軍によってイルクーツク州に送られ、その途上で労働力としてシベリアに送られる軍事俘虜であることに気づく。その経過は本書にはほとんど記されていない(278-9ページ)。
 1949年の9月に帰国するまでの4年余りの間に、著者はイルクーツク州で6か所の俘虜収容所をめぐった。この書物の叙述は、著書が1946年から2年間を過ごしたアンガラ河畔の田舎町ブラーツクでの経験から語り始められている。語学にひいでた著者は早い段階でロシア語の初歩を身に着けた。そのためにソ連管理者側から重宝され、ブラーツクではロシア人のオフィスで仕事をするようになった。
ここでは現代社会の、とりわけ全体主義的なイデオロギー体制の下で、自由を奪い人間性を歪めてしまう秩序の中にも、自由な思考と相互関係を尊ぶ人たちがいる。日本人の俘虜とのやりとりにおいても、そのような温かい関係が成り立つ。著者は過酷な苦難の経験を記す書物に、まずそうしたロシア人との交流を書き残し、人間性への信頼を伝えようとしている。たとえば、離婚して親と暮らしながら子供を育てているマルーシャとの交流だ。著者はこの24歳の女性の家に招かれ夕食をご馳走になるが、話は文学論に及び、社会主義的な結婚観に及ぶ。
「じゃあ離婚はどう思う?」
「愛のない結婚をつづけることは決して正しくないわ。私が離婚しなければならなかったことは、私の不幸よ。そしてそれがすべてだわ」
彼女は大きな深い眼で私の眼に見入りながら、明確に言う。私の質問の底意を知っているかのように先廻りして自分のことに言及しながら。こういう場合に、日本夫人がするであろうような恥ずかしげな風情は全くない。それだけにかえって彼女の深い悲しみがむき出しに感じられ、私はぶしつけた質問を後悔した。
確実な理解、ゆるがぬ信念、明確な意志、豊かな人間性。二十四歳だとは思えないほど、彼女は高くしっかりした足場に立っている。このように美しく豊かな人間性の花を、こんな片田舎に咲かせた社会的土壌は、やはり豊沃なのにちがいない。
「お世辞なしに」と私は起ち上りながら彼女に言った。「今日は、僕はほんとに幸福だった」
別れを告げようとすると、彼女は「ちょっと待って」をよびとめ、書棚から子供のために書かれた写真入りの歴史教程『ソヴィエト同盟の歴史』を取り出してきて、扉に、
    事務所の思い出にイチロウへ マルーシャ
と書きつけてくれた。そのあいだじゅう彼女が口ずさんでいた歌は、私の驚いたことに、あの「巴里の屋根の下」だった。(98-99ページ)
 著者は説明していないかが、「巴里の屋根の下」は1930年のフランス映画で、主題歌は去っていった恋人との良き日を思う内容だ。著者は離婚についての考えをどうどうと語りながら、良き愛を何気なく口ずさむことができるこの若い女性に、ソ連体制下でも花開いていくかもしれない、新たな可能性を見ようとしているのだ。そして、そこには「理解と寛容を教義として生活している同類の意識」(176ページ)があったとも述べている。
 著者はウクライナ人の人事係ミハイリュコフ上級中尉とも心の通う付き合いを享受することができた。この人物は見えにくいやり方でしばしば著者をかばってくれた。著者はまた、通りすがりのロシア人たちとも気持ちのいいやりとりをしている。
町角の売店(マガジン)の前を曲がろうとすると、老人が近寄ってきて、並んで歩き出した。
「きみ(スルーシヤイ)、もうじき日本に帰れるぞ。わしの息子が鉄道員をしているが、毎日、日本の兵隊を乗せた貨車が東に行かない日はないと言っている」
私たちが、十九世紀のロシア文学でなんどもお目にかかっている、あの善良な人なつっこい貧民(ムジイク)たちである。
「わしは、1905年に日本の俘虜だった。シンガポール、ヨコガーマ、マツヤーマ、みんな知っている。わしはマツヤーマにいたが、ある日軍医が、お前たちはロシアに帰れるぞと知らせてくれたときの嬉しさと言ったら」
そう言うと、老人はまるで今その帰還命令を軍医から受けでもしたように、クククと若い笑い声をたてた。
同人が、まだ忘れなかった日本語で「サヨナーラ」と言って別れて行くと、こんどは身体の巨きな壮年の男が近づいてきて話しかけた。その言葉が私にはわからない。どうもロシア語ではないようなので、首を傾げると、
「日本語で言ったんだが。通じないかい。僕はこんごの戦争で南樺太に行ったんだ。あそこの自動車道路は素晴らしい。それからユージノ・サハリンスク(豊原)の遊郭は実によかったよ」
それだけ言うと、離れて行った。
いつの間にか、私は子供たちの一団を従えて歩いていた。」(121-122ページ)
 著者はロシア人とのこうしたやりとりを踏まえてこう述べている。
ロシア人に特有なこの無差別な友情は、いったいどこからくるのだろう?ソヴィエトの民族政策からであろうか?
ツァーリズムは「諸民族の牢獄」であったといわれている。そこでは、異民族同士がお互いに嫉視反目するような政策が公然と採られ、人々はお互いに狼であった。ところが十月革命は諸民族を牢獄から解放し、人はお互いに人である関係を確立した。――私たちのパンフレットにはそう説かれている。きっとそうにちがいない。
きっとそうにちがいないが、しかしこの顕著な民族性がはたして僅か30年間の政策だけで培われたものであろうか。私には、それがもっと深い根っこからきているように思われる。19世紀のロシア文学を一貫して流れているロシア正教に根ざしたヒューマニズムの伝統を私は想いださないわけにはいかない。(175ページ)
 抑圧を好まない所長の下にあったブラーツク滞在時の叙述は本書の半分ほどを占めるが、実はそこでも、権力を振りかざす人々のこと、正当なことを言うと生命が脅かされる場面のこと、「民主化」にはげみソヴィエト体制に順応して地位をあげていこうとする日本人のこと、それを促す体制のことがそこかしこに書かれている。
 それは一日も早く日本に帰るための方便という意識はもちろんある。南東に向かいイルクーツクへ送られると、そこから帰国できる可能性が高いと信じられている。俘虜たちは何とか厳しい冬を越えずに帰りたいものと願っている。著者もそれは遠くないと楽観していたのだが、意に反して「懲罰大隊」に送り込まれることになる。そこには士官や学歴の高い者が送り込まれるのだ。1兵卒であった著者はマルクス主義について知っていることを述べたことがあったが、それによって厚遇されると思ったのは愚かな思い違いだった。その後、ようやくイルクーツクに送られ、帰国が可能になるところで結末となる。
 著者のシベリア抑留の最後の1年ほどのことが書かれているこの後半では、収容所で顕著に表れるソヴィエト的なシステムの抑圧性や、それに適応したり反発したりする中で露わになる俘虜たちの主体性の喪失が描き出されていく。
 俘虜たちは「批判」や「自己批判」を強いられるのだが、それは「ソヴィエト的愛国主義」とよばれるものだ。
ジュダーノフは、これらの討論について、批判と自己批判は、階級のないソヴィエト社会における発展の原動力だと言っている。私は、じっさいにその批判と自己批判なるものがソヴィエト社会の市民生活のなかで行われている場面になんども出っくわすことができたが、しかしそれは決して自由な批判精神から生れたものではないように思われた。その批判の多くは上から下にむかってなされ、私にはむしろ教師が生徒にあたえる叱責や、摘発が連想された。
労働者アパートの掃除女タチヤーナは、床を拭く雑巾バケツと机を拭くバケツを混同したので、「批判」された。道路監督サシコフは日本人俘虜に休憩時間を多くあたえすぎたので、「批判」された。器材庫係ボリースは保管がわるいために多くの円匙を紛失したので、「批判」された。(265ページ)
 帰国に先立つ時期、著者は「批判」と「自己批判」が日本人俘虜たちの自治体制の中で習得され実践されていく状況にも立ち合った。「反ファシスト民主委員会」によって日本人の間の「ブルジョア的」なものが摘発され、「自己批判」を要求される。その追及に加わる者はそれによって新時代に即した者として早い帰還を望むことができもする。「懲罰大隊以来、私の親しくしていた谷本がこの断頭台に立たされたときは、私は広場の地面に腰をおろしている自分の身体が小刻みにふるえるのを抑えることができなかった」。「谷本」はスターリンの社会主義と資本主義との平和共存論に賛意を示すべきときに、それはマルクス主義の原理と違うと薀蓄を語ってしまったのだ。
私自身は、スターリンの政策上の発言と史的唯物論の原理的な主張を区別しようとする谷本の意見はまちがっていないと信じていたが、しかしこの熱狂のなかで親しい友人を弁護しようとする勇気をもたなかった。そればかりではない。集会のおわりに、恒例の如く、この「極反動」の焼印をおされた他の下に全員が革命歌の示威を行なうことになったとき、私も自分自身の安全を危険にさらさないために、本心を深くつつんで、その合唱に加わったのであった。うたいながら、私は自分の卑劣を恥じていた。(こんなに理性を失っている群衆に話してみてもはじまらない)と、自分自身に言いきかしてみるが、そんな言いわけは猛烈な自己嫌悪の前にはなんの役にもたたなかった。
その後、誰にも気づかれないように谷本に会って詫びようと気を配っていた私は、ようやく数日後に、夜の闇のなかで彼をとらえることができた。
「かんべんしてくれ」と、私は力のない声で言った。「あの日、僕はなにひとつ弁護することができなかった。そればかりじゃない。みんなといっしょに歌までうたったんだ」
「瘋癲病院にいるあいだはしかたがないさ」
逆に、谷本が私をなぐさめた。(335-336ページ)
 戦後の民主化運動に見られる政治主義の愚劣さや息苦しさに通じるものだろう。他方、著者は俘虜の中の将校らがなお保持しようとした軍国日本の行く末を突き放して捉えてもいる。
懲罰大隊では、依然として関東軍当時の階級制度が保たれ、「個室」に住んでいる高級将校の身辺は若い少尉が当番兵のような形で世話をし、私たちのように兵隊出身の少数者に対しては、大部分の保守的な将校たちは、年少な少尉や見習士官に至るまで、「おい」「お前」と呼び捨てにしたが、その傲慢な、もったいぶった態度にもかかわらず、彼らのあいだの規律は弛み、道徳は日毎に堕落して行った。
懲罰大隊は、あたかも「着物が人間をつくる」とか「人は環境の動物である」という古い諺を証明する実験管のようであった。この実験管は、人間という脆弱な動物のさまざまな化学変化を悲しいほどはっきりと見せてくれた。
ここに送られてきた当初は、藤田東湖の「正気歌」や吉田松陰の憂国の和歌を声高らかに吟じて、「サムライ」的な気骨を誇示していた将校が、一ヶ月の労働ののちには、円匙を握って作業場からひそかに抜け出し、近くにある畑で馬鈴薯を拾う姿が見られた。毎日給与される350グラムの黒パンが、バラックのなかで、その持主が洗面に行って帰るまでの僅かのあいだに消えていたというような破廉恥な事件も一度ならず起った。そのころ、兵隊たちのあいだでは、絶えて破廉恥罪など聞くことがなかったのに。(221ページ)
 過酷な環境の中で自らを律することを支え、他者への信頼と敬意を保つよすがとなったものは何か。著者はロシアの民衆に見られる、誰にでも開かれた心のあり方と、読書人的な素養によって養われると著者自身が感じている自由な個人の理性の力とに希望を寄せている。そしてそれらには共通する「人生の美しい智慧」(346ページ)があると見てもいるようだ。
 多くの逸話からひとりひとりの人間の生きる形が豊かに描き出されている。何とか生き延びた日々だったが、そこには多くの試練とともに深い学びの機会もあった。その経験をつぶさにたどり直すことによって、著者は自らが立つ足場を確認し直している。そこから得られた洞察はある時代の世界を映しだしているとともに、今も新鮮で示唆に富むものと感じられる。


 

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